日本沿海輿地図(中図) 北海道西部
にほんえんかいよちず(ちゅうず) ほっかいどうせいぶ
概要
日本沿海輿地図(中図) 北海道西部
にほんえんかいよちず(ちゅうず) ほっかいどうせいぶ
19世紀の初め、伊能忠敬(いのうただたか)が日本全国を測量して歩き、精密な日本地図を作成したことは、日本の歴史では有名です。忠敬は大図・中図・小図の3種類の縮尺の地図を製作しましたが、この図はそのうちの中図、つまり縮尺21万6千分の1で、日本列島が8つの図に分けて描き表されています。土地の高低、方位が正確に示され、山や川、道路や港、城や寺院など細かい名称も記入されており、その精密さは現代の地図とくらべても見劣りしません。線や色なども丁寧で、絵としても見ごたえがあります。
1800年、56歳という、当時としては決して若くない年齢から始めた伊能忠敬の全国測量の旅は、日本全国をエリアに区切って計10回、17年の歳月をかけ行われました。忠敬を中心とする測量隊は、専用の器具を携帯して日本全国を歩き、測量の成果をもとに各地の地図を作製し、江戸幕府(えどばくふ)に提出しました。1818年、忠敬没後も、弟子たちは忠敬の遺志をついで測量の成果を地図にまとめあげ、1821年、大図214枚、中図8枚、小図3枚の計225枚を集大成し、完全版として幕府に提出しました。この時幕府に提出した完全版は、残念ながら1873年に火災ですべて焼けてしまいましたが、同じ測量データを元にしたコピーや、集大成以前に幕府に提出した図が残っています。東京国立博物館はこうした高品質のコピーや、完全版とは別の図を多数所蔵しています。この図もその一つです。かつて、現在の愛知県にあった三河吉田藩(みかわよしだはん)の松平家(まつだいらけ)に伝来しました。忠敬が測量を行っていた時期、この松平家からは、老中(ろうじゅう)という幕府の重要な役職を務める人物が出ていました。