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北海道・留萌市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)旧留萌佐賀家漁場留萌市礼受町

旧留萌佐賀家漁場

 北海道の日本海沿岸に連なる江差・寿都・余市・留萌等の沖合は、江戸時代から蝦夷地有数の漁場として知られる。とくに江戸時代後期以降は、鰊漁の漁場として繁栄し、これにともない日本海沿岸に多数の漁場施設が建設された。
 留萌場所(場所とは、松前藩が蝦夷地経営のために設定した交易場のこと)の開設は慶長年間とも伝えられる。当初は松前氏一族の知行所、後に松前藩士工藤家が世襲する場所となり、18世紀後期からは藩主の直領となった。18世紀前期からは場所請負による漁業経営が行われている。天明年間になる「蝦夷地案内記録」には「ルルモッペ」の場所名があり、鮑串貝・魚油・いりこ・鰊などの産物があったことが記されている。
 佐賀家が留萌場所における漁場経営に参加するようになったのは、弘化元年(1844)のことである。佐賀家は陸奥国南部田名部領内の下風呂村(現在の青森県下北郡風間浦村下風呂)に在住し、代々漁業・海運業を営み、蝦夷地とも交渉をもっていたが、この年、7代佐賀清右衛門は平之丞(8代)を留萌場所の礼受に赴かせ、漁場を開設した。佐賀家の屋号「因」(カクダイ)は、松前の田中藤左衛門の屋号であるが、これは場所請負制下での漁場経営には松前の人別であることが必要であったため、清右衛門が田中藤左衛門の名義を借りて経営を開始したものと考えられる。
 佐賀家は、弘化4年には留萌場所に越年者を置き、年間を通じて漁場の管理を行っており、安政4年(1857)には留萌場所の出稼人所有の鰊釜のおよそ15パーセントを文久3年(1863)には同場所の出稼人所有の建網数のおよそ10パーセントを占めるまでに経営規模を拡大し、請負人以外では最大の漁場経営者になった。
 明治2年(1869)、政府は旧来の場所請負制を廃止し、次いで明治九年に開拓使は鰊漁場を開放して営業を自由としたが、江戸時代以来の請負人等の有力な経営者は、恵まれた資本力を用いてさらに経営を発展させていった。明治20年には、佐賀家は鰊建網4統、鮭建網2統、鱒建網2統の計8統を有し、留萌地区においては旧請負人栖原家に次ぎ、旧出稼人としては最大の経営規模をもっていた。
 鰊漁は明治30年代中期まで順調に漁獲高を伸ばしたが、30年代末から衰退の兆しがみえ始め、明治末から大正初期に一時豊漁を記録したものの、その後は減少の一途をたどり、昭和32年(1957)の春鰊漁を最後に終わりを告げた。佐賀家の漁場経営もこの年をもって停止している。
 今回、指定を図るのは、佐賀家漁場のうち主として漁場施設の存在する区域である。現存する建物は母屋(番屋)・トタ倉(製品保管庫、明治36年造)・船倉・網倉・ローカ(一時保管庫)・稲荷社の計6棟である。母屋は一部改造の跡がみられるものの、中央の土間トオリを挟んで右側の経営者の居住区、左手の船頭・ヤン衆等労働者の居住区に分かれた、典型的な平入の番屋建物である。この母屋とトタ倉・船倉の間の空間は、かつては干場として利用されていた。ローカ付近には、鰊粕製造の釜場跡、前浜には船着場跡が残り、漁場での活動の一端を物語っている。敷地は鉄道と道路で3分割されているものの、海岸から後背地の丘陵に至る空間を利用して各種活動の機能に応じて施設を配置し、丘陵上に漁業信仰にかかわる稲荷社を設けた様相は、一体として往時の漁場景観を良好に残すものである。また、トタ倉等には豊富な漁撈資料が、佐賀家には多数の文書が保存されており、これらの関連資料からも漁場経営の具体相をうかがい知ることができる。
 近世から明治にかけて、繁栄を極めた漁業は北海道の産業を支える重要な柱であった。北海道漁業の発展は、関与する労働力の移動のみならず、生産物の流通を促し、たとえば俵物が長崎貿易の重要な輸出品であり、また、鰊粕が広く商品作物生産を支える魚肥として利用されたように、日本の流通経済の重要な一部を構成した。
 佐賀家漁場は、江戸時代の場所請負制下に始まる漁場として、また、短期間に大量の労働力と設備を集約して漁獲・生産を行う、北海道の日本海沿岸における漁業形態の発展をよく反映するものとして貴重である。
 佐賀家漁場の漁撈用具一式(3,745点)については重要有形民俗文化財に指定されており、今回、建物および敷地を史跡に指定し、一体として、その保存を図るものである。

国指定文化財(重要有形民俗文化財)留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具留萌市礼受町13番地

留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具

 留萌市は、北海道の日本海岸の中程に位置する。主幹産業は水産加工業で、往時はニシン漁で栄え、現在も数の子生産が全国の半分以上を占める。
 北海道のニシン漁は、早くはアイヌの人々により行われ、江戸時代に入ってからは和人により産業の形を取って始められる。江戸時代初期のニシン漁は松前藩の本領内に限られたが、18世紀の半ばには場所請負制度も確立し、大規模な漁場経営が浸透した。その後、西回り航路により蝦夷地物産が全国的な流通経済の中に組み込まれると、ニシン漁場も北上し、19世紀にはニシン肥利用も展開し、留萌のニシン漁も開始された。
 留萌に、村山伝兵衛が場所請負人として漁場を開設したのは、寛延3年(1750)で、伝兵衛没落後の天明7年(1787)には栖原角兵衛がこれに代わった。弘化元年(1844)には、留萌へのニシン出稼ぎも始まり、佐賀平之丞がカクダイ(因)を名乗って漁場を取り仕切った。
 昭和の慢性的な不漁のなか、北海道のニシン漁は、昭和30年の留萌での317石、北海道全道での36,314石の漁獲を最後に終焉を迎えた。留萌では昭和31・32年にも細々と漁を行っており、翌33年のニシン来遊に備えて整えていた漁撈用具一式が本資料であり、当時の用具類がそのまま残った貴重な資料である。