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北海道・松前郡松前町

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)松前藩主松前家墓所松前郡松前町

松前藩主松前家墓所

 松前藩主松前家墓所は、史跡福山城の北に続く寺町の一角にある松前家の菩堤寺法憧寺境内の北東隅にある。墓所は大きく2つの区画に分けることができる。一つは法憧寺本堂寄りの1区画で、西端に南面する正門を設けた東西に長いほぼ長方形をなしている。背後の一段高い所に初代武田信広・2代光広・3代義広・4代季広合葬墓、信広の養父蠣崎季繁以下の墓、5代松前慶広(松前藩主初代)墓等5基の墓を配し、その前面に、7代公広、8代氏広、9代高広、10代矩広、11代邦広、12代資広、13代道広、14代幸広、16代昌広、17代崇広、18代徳広、19代修広をはじめ、その室や直子等の墓36基と2基の燈籠がほぼ□の字形に並んでいて、この墓所の主区画をなしている。他の1区画は、主区画の東に接する南北に長いほぼ長方形をなし、南端に裏門を開いており、6代盛広、15代良広等の墓を正面にすえて、墓石数は12基を数える。2区画とも石段を造り、通路には切石を敷きつめている。
 墓は殆んどが五輪塔形式で、小は約70センチ、大は約140センチ、石造の屋形風覆屋におさめられているが、新しいものは、角石塔型・竿石柱型である。墓石は、古いものは青色をおびた凝灰岩であるが、新しいものは淡黒色の砂岩または花崗岩が用いられている。覆屋には木扉が造られ、扉・4壁には、経文等が彫刻されているが、扉は失われたものもある。埋葬形式は多くは仏式の土葬であったらしいが、18代徳広からは神式に変っている。
 この墓所が造られた年代は明らかでないが、慶長11年に福山城が完成し、元和5年、大館の町及び寺町を福山城城下に移したという記録があること、7代公広の墓が主区画の中心をなしていることを考えると、公広の時代と考えるのが妥当と思われる。蠣崎季繁等の墓1基、初代武田信広以下4代までの合葬墓1基は、寛政3年、藩の史家松前広長が建白して追諡建碑したものであり、また5代松前慶広の墓は、公広以下の藩主の墓に較べて粗末であり、覆屋もないことから考え、墓所建設後移されたものと思われ、6代盛広の墓も、墓石から見て後世移されたものであろう。
 なお、法憧寺本堂南西には、松前家の御霊屋があり、その中には歴代藩主等の位牌がおさめられている。位牌は30~40センチである。
 昭和54年、蝦夷地唯一の藩である松前家の歴史上果した役割にかんがみ、その墓所のある法憧寺境内を主体に史跡に指定して松前家墓所の保存をはかるものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)大館跡松前郡松前町

大館跡

 蝦夷地への和人の進出過程を知る上での主要な史跡として、いわゆる道南12館の存在は、夙に注目されているが、大館はその一つであり、福山城築城までの蠣崎(松前)氏の本拠として特に重要なものといえる。
 大館の起源は室町時代に遡り、嘉吉年間に南部氏との戦いに破れて蝦夷地に敗走した安東氏が居館としたのに始まると伝えられる。
 永正10年(1513)に、原住民の蜂起により大館も陥ちたが、翌年、蠣崎光広が大館に入り、徳山館と名を改めた。その後、蝦夷地全域を支配するようになった蠣崎氏は、慶長11年(1606)に徳山館の南に新城を築いて移転したため、徳山館は廃絶された。
 台地上に占拠する大館は、尖端部の「小館」と堀割を挾んで北に続く「大館」に区画されている。南側の小館沢口に架橋して入口とし、「大館」の後背部に柵を配して防備を固め、さらにその後方は堀割をつくっている。居館は「大館」に建てられたものと思われ、その北東部に、焼材等を検出する地点がある。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)松前小島松前郡松前町

松前小島

 北海道の南端に近く、面積約113ヘクタールの日本海の小孤島で、ウトウ・ウミガラス・ケイマフリ・ウミウ・ウミネコ等の海鳥の大繁殖地である。特にウミガラス・ケイマフリの繁殖の南限地でもあり、またイタヤ林および冷温帯の草原が発達している。天然保護区域。
 カラフトルリシジミ 地域を定めず
 わが国では北海道のみに産するシジミチョウ(蝶)の稀種で、主として大雪山等の1,500メートル以上の高地に生息している。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)松前氏城跡
 福山城跡
 館城跡
松前郡松前町、檜山郡厚沢部町

松前氏城跡<BR/> 福山城跡<BR/> 館城跡

H6-6-33館城跡.txt: 慶長4年(1599)、蠣崎慶広は氏を松前氏に改姓するが、その彼が慶長5年(1600)に築城に着手し、慶長11年(1606)に完成した城が福山城である。
 松前藩はこれを正式には福山館ないし福山陣屋と呼称していたが、領民とアイヌに対しては城と称した。以後蝦夷地が幕府直轄地となって、松前氏が梁川に転封されていた一時期、すなわち文化4年から文政4年(1807〜21)までの14年間を除いては、福山城は松前氏代々の居城であった。嘉永2年(1849)幕命を受けた松前崇広は翌3年に旧城を壊して福山城の築城を開始し、安政元年(1854)に完成した。この城が今日にみる福山城であり、その遺構が昭和10年に指定されている。
 ただし福山城の立地は必ずしも戦略上も経済上も有効なものではなく、築城以来函館、石狩等への移転が計画されることがままあった。また安政2年(1855)東西蝦夷地の上知によって、所領が狭小となったこともあり、[[厚沢部]あつさぶ]川流域・天の川流域を造田・開発する計画があった。慶応4年(1868)7月(以下旧暦)、この造田計画を推進していた若手家臣の下国東七郎が、クーデターにより執政となり、厚沢部川流域の[[館]たて]への移城が決定された。藩主徳広の同意を得た上で9月(明治に改元)に箱館府に、11月に太政官に築城願が提出されている。太政官の許可がおりるのは11月11日であるが幕府脱走軍の動向による軍事的緊張もあり、事実は九月に着工、10月には完成をみ、明治元年11月3日藩主徳広は館城に入城した。このため以後「館藩」とよばれるようになる。
 しかるに11月10日幕府脱走軍松岡四郎次郎隊は館城攻略のため五稜郭を出陣、11月15日には彼らの攻撃によって館城は陥落している。この時三上起順、今井興之丞ら多数が戦死している。
 城跡は厚沢部川と支流糠野川にかこまれた標高50メートルの台地上にある。その構えは城郭というよりは陣屋に近く、南方と東方の一部に土塁(東西約200メートル)とほり、また中心部に井戸跡や炭化米が散布する蔵跡などの建物跡が残っている。南方のほりを百間堀とよんでいるが、これが4周めぐっていることは、絵図(藤枝家文書、前川文書など)から知られていた。ただし昭和63年から、平成2年にかけて厚沢部町教育委員会および十勝考古学研究所によって行われた発掘調査の結果、東西北のほりは絵図とは若干異なって、それぞれ[[矩折]かねおり]をもっていることが確認できた。また、多くの建物跡、柵木基部木材等も検出されているし、多数の陶磁器(肥前系染付など)のほか遺物も出土している。
 館城南の山を丸山とよぶが、館城攻防をめぐる戦場であり、250か所を数える散兵壕の跡が残り、激戦であった様子を伝えている。
 館藩の呼称が示すように、館城は松前氏の最後の城である。また箱館戦争の主戦場の一つであったことにも重要な歴史的意義がある。さらに加えれば、明治になって作られた藩の城としても特異な意義があろう。館城の存在を抜きにしては、北海道における幕末、維新期の情勢や松前氏の歴史は語れないともいえよう。
 したがってここにその歴史的重要性を考え、既指定の福山城に館城跡を追加指定して、両者を松前氏城跡とするとともに、福山城の呼称を他の城の史跡指定名称にならって福山城跡と変更したい。