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群馬県・富岡市

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))旧一ノ宮町役場庁舎群馬県富岡市一ノ宮1353-1

旧一ノ宮町役場庁舎

神社参道沿いの敷地に建ち、桁行14.6メートル梁間7.3メートル、1.2階鉄筋コンクリート造、3階木造、寄棟造桟瓦葺である。外壁に2層分の柱形を表し、玄関ポーチにオーダーを模した円柱を立てる。県内で古例となる鉄筋コンクリート造の庁舎建築。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))富岡市講堂(旧富岡尋常高等小学校講堂)群馬県富岡市富岡1753-1

富岡市講堂(旧富岡尋常高等小学校講堂)

富岡小学校敷地の西側に南面して建つ。木造平屋建。正面の玄関ポーチと、その奥の半切妻造桟瓦葺の講堂からなる。建築面積九〇九平方メートル。南正面はアーチを連続させた開口部や、レリーフにより左右対称の洋風の構成をみせ、堂々として風格を感じさせる。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)旧富岡製糸場富岡市富岡

旧富岡製糸場

 旧富岡製糸場は明治5年(1872)、明治政府が殖産興業政策の一環として設立した官営模範工場で、近代製糸業の成立と発展に大きな役割を果たした生産施設である。幕末、開港により始まった貿易では、蚕の微粒子病が流行して欧州での生糸生産が激減し、諸外国からの日本の生糸・蚕種の需要が高まったが、生糸・蚕種の粗製濫造を招き、その品質向上が急務となった。富国強兵・殖産興業政策を掲げた明治政府は、主要輸出品である生糸の輸出振興と品質向上を意図し、技術者を招聘して、在来の座繰製糸に代わる洋式の器械製糸技術を導入した工場を設立し、全国に模範を示そうとした。
明治3年、政府はフランス人技師ポール・ブリューナを傭聘し、工場を設立させることとした。ブリューナは翌年渡仏し製糸器械一式を購入し、同時にフランス人の生糸検査人、工女を雇い入れ帰国した。工場の場所として、江戸時代から養蚕業が盛んで優良な原料繭が確保でき、輸出地である東京・横浜から遠くなく、製糸に必要な用水が確保でき、広大な元代官屋敷地が残って取得が容易であった岩鼻県富岡町城(現富岡市)の3町余の平坦地が選ばれた。
製糸場の設計は幕末、横須賀製鉄所建設に関わったフランス人バスチャンが当たり、明治4年3月に着工、建設には妙義山の杉材や吾妻の松材等を用い、瓦・煉瓦は富岡の東方福島にて焼成するなどし、明治5年7月に至りほぼ完成をみた。設立当初頃、東置繭所・西置繭所(2階建て切妻桟瓦葺、木骨煉瓦造、フランス積み)、繰糸所、煮繭所、蒸気汽罐所、鉄水槽、排水溝等の製糸に関わる施設、外国人用官舎や日本人工女用寄宿舎等の施設が建てられた。操業に先立ち、工場で働く工女を国内各地で募集したが、流言が飛び応募が進まず、政府は諭告書を数度発し募集につとめ、各藩から名門や旧藩士の子女404名が集まった。
明治5年10月の開業後は、各地からの視察が相次ぎ、富岡製糸場に倣った民間の器械製糸工場が各地に設立され、富岡製糸場で器械製糸法の技術伝習を受けた工女達は、帰郷後、地元で工女の技術指導に当たり、製糸技術向上に寄与した。日清戦争頃に器械製糸が座繰製糸を凌駕し、その後も生糸生産量は増加して明治末年に世界最大の生糸輸出国となった我が国製糸業において、富岡製糸場はその発展の基礎を築いた。
富岡製糸場の経営は、工女の伝習・指南工場としての性格が強かったことや、慢性的な工女不足もあって、開業当初から赤字が続いた。明治15年以降、大蔵卿松方正義によってインフレ・財政危機対策の一環として官業払い下げが推進されるなか、富岡製糸所(明治9年改称)は明治26年、三井組に払い下げられた。
三井経営期の富岡製糸所は、製糸機械の増設等設備投資が行われ経営は順調であったが、三井所有の他の製糸場が経営不振であることから、富岡を含む4工場は明治35年に原合名会社に譲渡された。原経営期には養蚕農家に蚕種の無料配布を行い、繭質を統一して糸質の向上を図るなど経営を展開した。昭和14年に片倉製糸紡績(のち片倉工業)に譲渡され、昭和62年に操業を停止した。現在、明治当初の敷地規模を維持し、明治初期の主要建築物の多くが民営時代にもそのままで使われてきたため、良好に残存している。製糸場に関する文献資料、古写真、図面、錦絵等も多く残る。
このように、旧富岡製糸場は、明治政府の殖産興業政策に基づき設立された官営模範工場として、その後の我が国の器械製糸工場設立の基礎を築き、払い下げ後も引き続き製糸業の中心として機能した、我が国近代の経済・産業史を理解する上で貴重な遺跡であり、設立当初来の敷地・建物群が大きな改変を受けずに極めて良好に残る。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)中高瀬観音山遺跡富岡市岡本・中高瀬

中高瀬観音山遺跡

 群馬県の南西部、長野県境に源を発する鏑川は、山地を下り終えた富岡市域から川幅を広げ、高崎市内で利根川の支流の鳥川に合流する。中高瀬観音山遺跡は、富岡市のほぼ中央に位置し、鏑川右岸の標高230メートルほどの丘陵上に立地している。遺跡のある丘陵の北端部は、小河川によって浸食をうけ、南北500メートル、東西3キロメートルの細長い独立した丘陵として区切られる。周辺部との比高は、50メートル以上あり、丘陵緑辺部は急斜面となっている。そのため遺跡からの眺望はよく、対岸の富岡市街地をはじめとして、鏑川の流域を一望のもとに見渡すことができる。丘陵頂部の標高は、南部が高く、北部が低い。丘陵の中央と南に、地形が平坦な区域があり、2つの平坦部の中間と中央平坦部の北は緩やかな斜面となっている。遺構は、平坦部と緩斜面に存在し、一部は丘陵西側の急斜面部にまで及んでいた。
 遺跡は上信越自動車道路建設工事に伴い、平成元年度から2年間にわたり財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘調査を実施した。丘陵の頂部東西方向に通過する高速道路予定地部分の発掘調査では、保存状態の良好な竪穴住居跡や掘立柱建物跡、柵跡等からなる弥生時代後期の集落跡の一部を発見した。その後、群馬県教育委員会と富岡市教育委員会が、路線外における遺跡の範囲および内容を知るための確認調査を行い、遺跡の全容を明らかにした。
 調査の結果、本遺跡には縄文時代から中世にいたるまでの遺構が残存していたが、その主体は弥生時代後期の大規模な集落跡である。集落は東西200メートル、南北350メートルの規模をもつ。竪穴住居は、丘陵中央の平坦部に濃密に分布し、南の平坦部の緩斜面部にまで広がっていた。また、集落中央部では居住域の周囲を柵で囲み、南部には集落内部を区画する濠まで備えていたことも判明した。
 柵は、住居が密集する平坦部の東側と西側の斜面で発見された。直径30センチメートル、深さ五〇メートルほどの柱穴がほぼ2メートルの間隔で、等高線に沿って直線的に並び、数回の建て替えが認められる。
 集落の南部の斜面部には断面形がV字形をした濠がある。濠は長さ65メートル、上幅2・3メートル、深さ1・5メートルの規模をもち、東西両端部は谷に向かって掘りぬかれていた。・この濠の南は丘陵上では標高が最も高い住居域となっているが、住居とは近接せずに方形周溝墓が一基、単独で存在する。
 総数140棟を越える竪穴住居は長方形をしている。長辺11メートル、短辺9メートルの大型のものから長辺5メートル、短辺3メートルほどの小型のものまであり、大型住居は丘陵中央部の住居が密集する平坦部に集中している。火災を受けている住居も多い。梁、屋根、壁に用いられたと推定できる炭化材が検出され、当時の住居の構造を知ることができる。大型住居の主柱には厚さ5センチメートル、幅3センチメートル(柱痕跡による計測値)の木材を用いているものが多い。住居外の土坑と住居をトンネルで接続する特殊な住居も7棟発見されている。トンネル部分は直径50センチメートル程度で、長さは最長のもので4メートル以上ある。
 掘立柱建物は4棟が平坦部に、六棟が丘陵西側の急斜面部に存在する。平坦部のものは倉庫と考えられる。急斜面部にある掘立柱建物のなかには、柵の外側に接して1間4方の小規模のものがあり、これは遺構が眺望のよい場所に立地していることなどを考慮すると、物見台的な施設と推定される。
 遺物は櫛描き文系統の樽式土器、縄文を施す在地系の赤井戸式土器を含む弥生時代後期の土器をはじめとして鉄鏃、石鏃の武器類、石包丁、石斧などの農工具類、その他紡錘車、土製勾玉、ガラス玉が出土している。
 本遺跡周辺では、近年多くの遺跡が発掘調査されている。その成果から弥生時代後期の集落遺跡は、河川に近い低位段丘部分よりも、むしろ河川から離れた上位段丘や丘陵上に数多く立地することが判明してきた。さらに、弥生時代後期に継続して営まれる拠点的な大規模集落が存在する一方で、小規模で存続期間も短い集落が広範囲に分布する状況も明らかとなっている。
 中高瀬観音山遺跡は、丘陵上に立地する大規模集落である。弥生時代中期から古墳時代後期までの各時期の住居があるなかで、弥生時代後期のものだけが他の時期と比較して圧倒的に多い。これは、この時期に集落が急激に膨張し、直後に急速に衰退していったことを示している。このような集落規模の変化と、柵、物見台等の施設の設置は、北関東における弥生時代後期の拠点的な大規模集落の形成と、当時の社会状況を知るために貴重な資料を提供した。よって、史跡に指定しその保存を図ろうとするものである。