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山梨県・韮崎市
国指定文化財(登録記念物)徳島堰山梨県南アルプス市・韮崎市
釜無川右岸に水を供給するために作られた灌漑用水路。寛文5年(1665)に江戸の商人徳島兵左衛門俊正が工事に着手したものの水害により工事を断念し、その後、甲府藩が寛文10年(1670)に完成させた。用水路はいくつもの沢や川を横断したもので、延長は約17kmである。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))大村家住宅土蔵山梨県韮崎市神山町鍋山字上小路1880-1
主屋の東側に西面して建つ。土蔵造二階建、切妻造桟瓦葺平入で、北面の一部と西面に下屋を付す。一階は南から書庫と倉庫を配し、二階は西側に廊下を通し、南から八畳間二室、四畳間を並べる。東面は敷地東端の石垣上に建ち、農村集落の景観を構成する。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))大村家住宅主屋山梨県韮崎市神山町鍋山字上小路1880-1
市内中央、釜無川右岸の平野部に位置し、敷地の北西に南面して建つ。木造平屋建、切妻造桟瓦葺で、外壁は白漆喰塗。内部は東側に土間、西側に土間に沿って板間が二室、さらに奥にそれぞれ南北二室の六畳間と八畳間が並ぶ。当地域の近世農家住宅の伝統を継ぐ。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)白山城跡韮崎市神山町
白山城跡は、甲府盆地の北部、釜無川西岸の標高約560mの独立丘上に占地し、釜無川を挟んでほぼ真北3.5kmの眼下に、武田勝頼の最後の居城の国指定史跡・新府城跡を望む。近世の地誌『甲斐国志』によれば、白山城は甲斐源氏の祖、武田信義の要害として築城されたと言い、北麓には武田八幡神社がある。戦国時代には武田氏支族の武川衆の青木氏、山寺氏が守備した。
南北に延びる尾根上の東西約150m、南北約180mの範囲に、北から馬出し郭、虎口郭、主郭、副郭を配する。山腹に横堀を巡らせ、横堀に放射状の竪堀を接続し、西側背後の尾根には大きな堀切を2箇所設けて遮断している。良くまとまった郭配置で、特に横堀と放射状竪堀の組み合わせは戦国大名武田氏の高い築城技術を示す。
白山城跡の西側背後は標高約882mの八頭山へと尾根が続いている。八頭山の南と北の尾根筋は白山城跡を包み込むように東側に下り、尾根の先端にそれぞれ烽火台が築かれている。地元では南側をムク台、北側を北烽火台と呼んでいる。ムク台は沢を挟んで白山城跡の約900m南側に位置し、標高約692mの高まりに占地する。山頂の主郭は東西30m、南北35mの三角形を呈し、南側には高さ1mほどの土塁が巡る。北側には径約4mの円形の凹みがあり、周囲の尾根は4箇所の堀切で遮断され、厳重な防御が施されている。北烽火台は沢を挟んで白山城跡の約600m北側に位置し、標高約601mの高まりに占地する。東西に延びる尾根筋を堀切で遮断し、東側に土塁を伴う幅10m、長さ50mほどの2段の平坦地を設け、中程の段差の箇所に径約4mの円形の凹みがある。ムク台と北烽火台は白山城跡の南北を守備し、白山城跡を経由して相互に連絡が出来る。
両烽火台を含む白山城は、信州諏訪方面、佐久方面と甲府の武田館を繋ぐ武田氏烽火台群の甲府盆地北部の中枢であり、新府城築城後は同城防衛の中核となった。白山城の守将の武川衆は、後に徳川家臣団に組み入れられ、白山城も天正末頃には城郭としての機能を停止したと推測されるが、正確な廃城時期は不明である。
白山城跡は、戦国大名武田氏の信州進出の拠点となった城郭で、甲府盆地北部における武田氏烽火台群の枢要の位置を占めていた。また、武田勝頼の最後の本拠地の新府城防衛の拠点でもあり、武田氏の高度な築城技術を示す山城跡としても重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。