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三重県・多気郡明和町

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))乾家住宅門及び塀三重県多気郡明和町大字斎宮字牛葉321-1他

乾家住宅門及び塀

伊勢街道沿いの旧家の門及び塀。敷地北辺を区画する塀の中央に門を開き、門の内側西寄りに南北塀を設けて庭を区画する。門は切妻造本瓦葺の薬医門。塀は桟瓦葺の真壁造黒漆喰仕上で、腰を下見板張とする。総延長三九メートル。街道の歴史的景観を構成する。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))澄野家住宅主屋三重県多気郡明和町大字斎宮字牛葉118

澄野家住宅主屋

伊勢街道に北面して建つ町家。つし二階建切妻造平入桟瓦葺で正背面に下屋を下し、正面は格子を構え、軒先に霧除を付す。内部は東を通り土間、西を整形四間取とする。西端に床構え、仏壇、押入を配す。良材を用いた上質な町家で、街道の歴史的景観を形成する。

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))三重県天白遺跡出土品三重県多気郡明和町竹川503

三重県天白遺跡出土品

 遺跡は、松阪市嬉野町に所在する。この地は伊勢平野の西部、布引山系から東流する中村川の左岸段丘上にあたり、本件はこの地に構築された縄文時代後期中葉から晩期初頭にかけての大規模な配石遺構、及びその周辺から出土した遺物全163点で構成される。その内容は、多量の土器・土偶・土製品に加えて、敲石等の水銀朱(辰砂)精製用具、岩偶や石棒・石剣などの祭祀用具を含む多数の石器・石製品と多彩である。
 特に土偶は、残欠を含めて42点が出土し、この数は西日本における土偶多出遺跡として奈良県橿原遺跡出土品(重要文化財)に次ぐ。土器は、一乗寺K式から滋賀里I・II式までの各型式に、東日本に分布の中心を置く賀曽利B式土器の影響が強い土器も伴う。
 本件は、縄文時代における西日本と東日本との結節点としての当遺跡の性格を如実に示した出土品で、西日本における豊富な祭祀用具の組成を示す好例であり、その学術的価値はきわめて高い。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)斎宮跡多気郡明和町

斎宮跡

伊勢湾に注ぐ櫛田川及びその支流祓川の右岸平野の、昭和30年ごろまで「斎宮(さいく)村」といわれた地には、古くから“斎王の森”とよばれてきた伊勢神宮所有の一画が顕彰碑をそなえるのみで、幕末以来の保護・顕彰運動にも拘わらず、伊勢斎宮は長く幻の宮であった。
 然るに、昭和45年頃、祓川右岸の古里遺跡に及んだ大規模宅地造成に伴う事前調査の結果、奈良時代の掘立柱建築遺構群・大溝をはじめ、多数の各種土器とともに緑釉陶器、円面硯・蹄脚硯等の検出を見、斎宮遺跡との関連が俄に注目されるに至った。このため三重県教育委員会は、この宅地造成を中止させるとともに、昭和48〜50年の3か年にわたり範囲確認調査を実施し、“斎王の森”を中心に南北約800メートル、東西約2キロメートルの範囲に、不整形ながら奈良時代から鎌倉時代に至る大溝や多数の大規模掘立柱建築遺構群ならびに平城京・平安京に次ぐ多量の各種緑釉陶器片を検出し、「楽殿」「宮の前」「御館」などの古字名とともに、160ヘクタールに及ぶこの地一帯が、かつて斎宮の宮殿や斎宮寮の諸寮司が幾世紀にもわたって造営された斎宮跡であることほぼ確定されるに至った。
 斎宮の殿舎は、その最盛期と考えられる平安時代には斎宮の居住する内院、斎宮寮が所在する中院、寮に付属する11〜13の司その他を含む外院の3区画に分かれ、官制上の定員300人以上を擁する大規模大組織であった。
 文献資料に知られるこのような斎宮が、6〜7世紀にわたって、どのような建築設計と機能的役割と管理維持が行われたかは、今後の計画的な発掘調査等によって得られる新知見・新資料によって次第に明らかにされるであろうが、その意義はわが国の古代〜中世における国家の政治・祭祀・工芸等の分野に従来の資料のみでは計り知れない新生面を切りひらくものであり、その意味で斎宮跡は歴史的に極めて重要な遺跡である。