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滋賀県・草津市

国指定文化財(重要無形民俗文化財)近江湖南のサンヤレ踊り滋賀県草津市、栗東市

近江湖南のサンヤレ踊り

 サンヤレ踊りは、独特の囃子詞(はやしことば)を伴う踊りであり、美しく装った子供たちが、太鼓や鞨鼓(かっこ)、ササラなどの楽器で単純なリズムを奏しながら簡単な所作で踊り、笹や榊、扇子などの採物を持った者がこれを取り囲んで「サンヤレ サンヤレ」と囃し歌う。踊りの一行は、行列の形式をとって踊り、かつ隊列をなして地区内を巡行しつつ踊る。
 サンヤレ踊りが分布するのは、滋賀県の南部に位置する草津市の矢倉(やぐら)、下笠(しもがさ)、片岡(かたおか)、長束(なつか)、志那(しな)、吉田(よしだ)、志那中(しななか)および栗東市の下戸山(しもとやま)である。災いを祓うとともに五穀豊穣の願いをこめて、各地の神社祭礼で踊られており、草津市の各地区は五月三日、栗東市の下戸山では五月五日に行われている。矢倉地区は隔年で、長束地区は三年に一度である。栗東市下戸山の小槻(おつき)神社大祭での踊りは、「サンヤレ」の囃子詞を伝えていないが、楽器編成や、囃し手の存在、踊り振りなどの点から草津市のサンヤレ踊りと同系統の芸能である。
 草津の地は古代に近江国府のあった現在の大津市に隣接し、畿内から東国に向かう時は、多くの場合、この地を経由した。草津の地名は十三世紀末の記録にみえ、草の津、すなわち陸の物資集積の地であったことがうかがい知れる。近世には江戸から京へ向かう東海道と中山道が合流する宿場として栄え、盛んに文物の往来があった東西交通の要衝の地であった。
 本件は、「サンヤレ」という囃子詞に特色のある芸能である。貞享二年(一六八五)に刊行された『日次紀事』(ひなみきじ)によれば、近世京都近郊の村落での行事にサンヤレの囃子詞があった。また、サンヤレという語は、十八世紀初頭に刊行された『松の葉』など、当時の上方や江戸で流行した歌謡の歌詞集にみられることから、広い範囲で流行した囃子詞であったと考えられる。本件に関する記録としては、志那中地区の明和七年(一七七〇)「御神事格鋪帳」、下笠地区の天明二年(一七八二)「祭礼踊之一義覚」などがある。そのほか、下笠地区に貞享五年三月や享保六年(一七二一)三月の年紀がみえる踊り衣裳が、吉田地区の元禄十七年(一七〇四)四月五日の銘文のある鞨鼓、矢倉地区の正徳三年(一七一三)四月吉日と銘文のある陣羽織などが伝えられている。これらのことから、この地のサンヤレ踊りの始まりは定かではないが、京都で十七世紀後半に流行していた芸能がほどなく流入し、近世農村の祭礼芸能として伝承されてきたと想定される。
 各地区のサンヤレ踊りの姿は一様ではないが、独特の囃子詞を有する以外にも共通の内容を持つ。
 踊りの諸役について矢倉地区と下笠地区を例にみていくと、矢倉地区は、稚児(一)、太鼓打ち(一)、太鼓受け(一)、摺鉦(すりがね)(二)、ケケチと呼ぶ鉦鼓(しょうこ)(二)、カンコと呼ぶ鞨鼓(二)、ササラ(二)、音頭取り(二)、踊り役の頭(二)、踊り役の次頭(二)、踊り子(一二)で構成され、稚児は幼児男子、太鼓打ち、鉦鼓、鞨鼓、ササラは小学生男女の役であり、そのほかは成人男子が務める構成となっている。また下笠地区では、鼓(一)、棒振り(一)、ショウモンと呼ぶ鉦鼓(一)、ササラ(二)、スッコと呼ぶ鞨鼓(二)、摺鉦(二)、笛(四)、太鼓打ち(二)、太鼓受け(一)、音頭取り(三)の構成で、このうち棒振り、鉦鼓、ササラ、鞨鼓、太鼓打ちは男児が務め、他は成人男子の役となっている。このようにサンヤレ踊りでは、子供たちが太鼓、鉦鼓、鞨鼓、ササラなどの打楽器を務めている。各地区とも、子供たちは花笠を被り、模様染の浴衣や長着を着た上に、色鮮やかな帯を結んで腰に垂らしたり、襷を掛けて背中に垂らすなど、華やかに趣向を凝らした装いである。
 また、踊りの一行が、行列の形式をとって踊り、かつ隊列をなして地区内を巡行して歩くことも共通する。矢倉地区では稚児を先頭に、次に楽器群、さらに成人男子による踊り子の順で二列縦隊を成し、特定の家々、御旅所(おたびしょ)、地区内の神社等へと移動しつつ、二列縦隊の形式で決められた場所で踊る。下笠地区も同様で、鼓を先頭に二列縦隊で進み、宿である地区の会館を出発し、神社や御旅所を廻って再び宿に戻る途次、神社境内に祀られる各社に対して踊るほか、所定の場所で踊りを繰り返す。
 踊りは、太鼓や鞨鼓、ササラなどの楽器による単純なリズムにあわせ、跳躍や回転など簡単な所作で踊るものである。矢倉地区では、子供たちによる楽器がリズムを主導し、子供たちは楽器を奏しながら飛び跳ねたり、位置を変えたりして踊る。加えて、手に扇と榊の枝を持った成人男子による踊り子が「サンヤレ サンヤレ」と囃しながら、左右の膝を交互に高くあげて踏み替え、次にその場で右に一回転する。下笠地区の踊りは、「練り込み」と「踊り」で成り立っている。「練り込み」は踊りの場へ練り込む時の踊りで、鼓が先頭となり上半身を前後させながら足を踏み変えて進みつつ踊る。この時、鞨鼓は腰を落として、足を後ろに蹴り上げる要領で歩を進め、同時に両手で鞨鼓を前に運ぶ所作を繰り返す。「踊り」では、最初に鼓が打たれた後、鉦鼓、笛、太鼓、ササラ、鞨鼓が合奏を始める。全体にコの字型の隊形をとり、中央で太鼓打ちが、太鼓持ちの差し出す太鼓を打つ形で踊る。音頭取りも打楽器のリズムに合わせて左右に体の向きを変えながら踊り、歌う。この時、手に笹を持った人々が踊りの一行を取り囲み、音頭取りの歌う一節ごとに掛け合いの形で「サンヤレ サンヤレ」と囃していく。歌は短い詞章の繰り返しであり、手拍子に乗るようなリズミカルな歌い方で歌われる。
本件は、独特の囃子詞を伴う踊りで、芸能の構成内容から中世後期にみられる祭礼芸能の姿を今にうかがわせる貴重な伝承である。この祭礼芸能は、疫神祓い(えきじんばらい)の性格を持つものであったが、本件は近世農村の祭礼芸能として定着し伝承されるなかで、災いを祓うとともに五穀豊穣の願いを込めて行われるようになったものである。

国指定文化財(登録有形民俗文化財)琵琶湖の漁撈用具及び船大工用具滋賀県草津市下物町1091

琵琶湖の漁撈用具及び船大工用具

 本件は,琵琶湖とそれに注ぐ河川等で魚介類等の捕獲等に用いられてきた用具類と,その際に用いられた木造船を製作するための用具類を網羅的に収集・整理したものである。
 琵琶湖は,滋賀県の中央部に位置する我が国最大の湖沼で,固有種をはじめ多種多様な魚介類が生息し,沿岸の人々の多くが古くから漁撈に従事してきた。
 漁撈用具は,陥穽漁,定置漁,網漁,釣漁,突漁,伏せ漁,貝曳漁等の漁撈に直接使う用具のほか,船や船具,漁撈用具を製作・修理する用具,魚介類の加工や運搬の用具,仕事着等もある。エリと呼ばれる定置漁の用具のほか,魚種ごとに多様な形態を持つ筌,アユを生かしたまま捕獲・運搬する用具類,近代以降の淡水真珠の養殖用具等,地域的特色があるものが多い。
 船大工用具は,これらの魚介類を捕獲・運搬する木造船を製作する用具一式で,各工程の用具が網羅されている。コブネなどと呼ばれる小型の船から丸子船のような大型の船まで多様な船を製作してきた様相,また強度や浮力等の向上のため舳板を縦に接ぎ合わせる,特色ある構造の船を製作してきた様相等を読み取ることができる。
(※解説は登録当時のものをもとにしています)

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)芦浦観音寺跡草津市

芦浦観音寺跡

芦浦観音寺跡は、草津市の北部、守山市と接する芦浦町に所在し、南を走る志那街道を介して東は中山道の宿駅である守山宿、西は草津三港の一つである志那港へと通じ、琵琶湖を隔てて比叡山とも指呼の間にあり、湖南東部の水陸両交通の要衝に立地している。
寺は、寺伝によれば聖徳太子開基、秦河勝創建の伝承を有しており、当地域は白鳳期の瓦が確認され、観音寺廃寺の名称で白鳳寺院跡として周知されている遺跡である。この寺は古代末から中世にかけて衰退したが、応永15年(1408)歓雅が天台宗寺院として中興したとされている。
その後、戦国期から江戸期にかけての八世賢珍、九世詮舜、十世朝賢の時に観音寺は政治的に大きく力を付けていく。九世詮舜は、豊臣秀吉の下で近江国内の蔵入地の代官と琵琶湖湖上水運全体を管掌する船奉行として活躍し、十世朝賢は湖南・湖東を中心とする幕領約24,000石の代官及び船奉行となり、また永原御茶屋御殿の作事奉行にもなっている。
現在、境内には重要文化財に指定されている室町期の建物で明治期に境内に移築された観音寺阿弥陀堂や江戸初期建立の観音寺書院、重要文化財を含む多くの什器、古文書、歴史資料を所蔵する蔵や門が所在する。江戸初期のものとされる「芦浦観音寺境内絵図」に描かれた歴代住持が政務を執った政所は、明治に入って取り壊されていて現存しない。一方、寺の周囲には幅3.6mから8.2mの規模の堀が巡り、堀の内側には幅6.4mから8.0m、高さ2mの規模をもつ土塁が築かれ、表門周辺では石垣が築かれており、境内は中・近世の城郭を想起させる特異な寺観を有している。また、発掘調査の結果、中世末から江戸初期にかけて掘られ江戸末に埋没した境内を南北に分ける内堀の存在も確認されている。
境内の西側は、現在歴代住持の墓地を含み、その周囲は農地となっているが、絵図には堀と竹垣に囲まれた建物が描かれており、寺と一体の施設があったところと想定される。また、北側には、守山宿から琵琶湖に向かって流れている堺川があり、内陸水運路として機能していたと考えられている。この堺川と寺の堀は水路により繋っており、船奉行としての芦浦観音寺の性格を考えると堺川に通じる北側一帯は重要な地域であるといえる。
このように、芦浦観音寺跡は、戦国期から江戸初期にかけて、豊臣・徳川の天下統一事業に深く関わり、特に琵琶湖湖上交通全体を管掌する船奉行として重要な役割を担った寺跡である。また、現在も室町から江戸期の建物が多く残っており、かつ城郭を思わせる寺観は、寺の歴史的役割を具現する遺構と考えられ、我が国の中世から近世に至る歴史を考える上で重要であり、史跡として指定し、保護を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)草津宿本陣草津市草津一丁目

草津宿本陣

旧東海道草津宿の本陣であつて、木造瓦葺平家建、街道に面して建てられている。主要部は享保3年膳所藩瓦の浜御殿を移築したもので、天保10年その上段向を建替えた。
 向って左に表門、玄関、上段の間、家臣用の部屋等の客用施設を右に居間を設けてその間に土間をとり、台所口を開いている。その他土蔵、御除門等も存し、表間を店舗に改造しているような模様換も行われているが、よく旧規模をとどめ、交通史の遺跡として極めて貴重である。
 草津宿は、近世、東海道五十三次のうち52番目の宿駅で、五街道のなかでも重要な街道と位置づけられた東海道と中山道の合流・分岐点に当たり、我が国近世交通の要衝であった。天保14年(1843)の記録によれば、家数586軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒を数え、江戸と京を往来する旅人や物資で宿場は賑わいを極めた。草津宿の本陣としては、江戸時代を通じて田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二つが設けられ、公家・大名をはじめ貴人の休息・宿泊施設として機能した。このうち七左衛門本陣は、草津川に隣接する宿場・一町目西側に位置し、幕末の絵図等によれば、表間口14間半(約26.1m)、奥行き62間(約111.6m)、屋敷地1,305坪、建坪468坪で、建物は街道から向かって左側に休泊者のための座敷棟、右側に田中家の住居棟、敷地奥には厩、土蔵が配され、周囲は西側は高塀、北側及び東側には堀・藪を配するものであった。
 明治3年(1870)に宿駅制度が廃止され本陣として機能は失い、郡役所や公民館として利用され、建物の改変が行われたが、江戸時代の敷地敷と多くの本陣建物が良好に残っており、我が国近世の交通を知る上で重要なことから、昭和24年に史跡に指定された。その後、平成元から同8年にかけて座敷棟等の保存修理工事が行われ、一般公開されている。
 今回、敷地北側及び東側の敷地を画する堀部分について追加指定を行い、保護の万全を期そうとするものである。