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滋賀県・守山市
国指定文化財(重要無形民俗文化財)近江のケンケト祭り長刀振り滋賀県守山市、甲賀市、東近江市、蒲生郡竜王町
近江のケンケト祭り長刀振りは、滋賀県守山市、甲賀市、東近江市、蒲生郡竜王町に伝承される祭礼芸能であり、多くはケンケト祭りと称する、各地の春祭りで行われている。楽器を奏しながらの踊りと、棒振りや長刀踊りという芸能があり、いずれも少年たちによって演じられる。さらに、神輿(みこし)や傘鉾(かさほこ)、少年たちによる踊り、棒振りや長刀踊りなどで構成される神幸行列に、「花」や「鷺」(さぎ)と呼ぶ鉾が伴なうという特色がある。ケンケトという名の由来は、各地に諸説伝わるが、子供たちが打つ鉦(かね)の口唱歌と考えられている。
本件が伝承されるのは滋賀県の湖南(こなん)・湖東(ことう)地域である。守山市杉江町(すぎえちょう)の小津神社(おづじんじゃ)、同市幸津川町(さづかわちょう)の下新川神社(しもにいかわじんじゃ)、甲賀市土山町(つちやまちょう)の瀧樹神社(たぎじんじゃ)、東近江市蒲生岡本町(がもうおかもとちょう)の高木神社、同市宮川町(みやがわちょう)の八坂神社、蒲生郡竜王町の杉之木(すぎのき)神社の各春祭りに行われている。湖南・湖東地域には独特の囃子詞(はやしことば)を有し、美しく装った子どもたちが、太鼓や鞨鼓(かっこ)、ササラなどの楽器を奏しつつ踊る芸能が広く分布しており、本件はその一つである。これらは、近世初期に京都で流行していた芸能がほどなく流入し、当該地域の祭礼芸能として受け継がれてきたと考えられるものである。
本件の記録としては、小津神社の氏子である杉江地区が当番を務めた年の祭礼役者付が残されている。天明五年(一七八五)から大正四年(一九一五)の間の記録であり、楽器編成や長刀があったことがわかる。なかでも天保五年(一八三四)には、長刀二五人の中に「ぼふふり」四人の名がみえ、長刀踊りの先頭に棒振りがいたことが知れる。そのほか、近世の写しとされる「近江国甲賀郡岩室郷瀧樹神社御祭礼記録」によれば、瀧樹神社祭礼で延徳元年(一四八九)に踊りを初めて行うとあり、続けて棒振りともいう踊り子の扮装や使用楽器、「ケンケトケンケン」という囃子詞が記されている。踊りの始まりを延徳元年とする根拠はないが、記述された芸態は現行のものと相違ない内容となっている。
各地区のケンケト祭りにおける芸能内容は必ずしも同一ではないが、いくつかの共通の特色がみられる。
ケンケト祭りには、楽器を奏しながらの踊りと長刀踊りあるいは棒振りという芸能が付随する。いずれも少年を主体とし、これらの担い手は「踊り子」と称される。楽器編成は鉦、ササラ、スッコあるいはシッコロコと呼ぶ鞨鼓、太鼓、小鼓等で、少年たちが簡単なリズムを合奏しながら単純な所作で踊る。囃子詞を伴い、また短い詞章の歌が入るところもある。長刀踊りは、長刀を手に持った演じ手が、縦一列に並び、鉦や太鼓の囃子に合わせて長刀を振りながら前進したり、踊り手が一人ずつ、長刀を頭上で回す、両手で持った長刀の上を飛び越える、放り上げて受け取るといった演技を披露したりするものである。前者はいわば総振りで、神社の鳥居から社殿へ向かう参道などで振る場合が多い。この所作は、「振り込み」や「ワタリ」などといわれる。後者は、年長者がみせる個人技であり、「アトブリ」や「シマイ振り」などという。長刀振りは祭礼の中で露払いの役割を果たしている。また、踊り子たちは、例えば山鳥の羽根を付けた冠や花笠を被ったり、振り袖を着たり、色とりどりの横縞模様で裾に沢山の鈴が付いたアミというものを腰に巻いたりして華やかに美しく装っている。
土山町のケンケト祭りの踊り子は、棒振り(二)、鉦(一)、御幣持ち(一)、鞨鼓(二)、ササラ(二)の八名で構成されている。長刀踊りはここでは出ない。踊り子は小学生の役で、最年少がササラを務め、年長者が棒振りを担当する。竜王町山之上に鎮座する杉之木神社の祭礼は、山之上と東近江市宮川町の共同で執り行われている。山之上で芸能に直接関与する各役は、太鼓打ち(二)、長刀振り(大勢)、鉦打ち(三)、オード(大鼓・一)、カワチャ(三)、長刀警護(三)となっている。カワチャとは側者のことで、鷺の鉾を支える三本の綱の責任を持つ者のことである。蒲生岡本町では、ケンケトと呼ばれる長刀振りと、踊り子によるカンカ踊りがある。カンカ踊りは鉦(一)、太鼓打ち(二)、太鼓受け(一)、鞨鼓(二)、ササラ(二)という編成である。年の順に務める役割が決まっており、カンカ踊りを終えると、ケンケトの演者となり、二十歳まで演じ続ける。
少年たちによる踊りや長刀振りは、神輿や傘鉾の巡行と共に地区を巡り、神社境内や御旅所へと練り込み、各所で披露される。また、この神幸行列に「花」と呼ぶ鉾が付随することも特色の一つである。土山町では「花笠」と呼ぶ鉾を作る。花笠は、竹棹の先に青竹で四角い枠を付け、そこに赤い花(造花)や各家から奉納された手拭いなどを挿したもので、参詣者が花や手拭などを奪い合う「花奪い」が祭りの中で行われている。奪い取った花は荒神さんへ供えておくと火難除けになるとされる。竜王町山之上では「花」ではなく、神の化身とされる「鷺」の鉾が出る。鷺鉾は、棹の先に紙製の鷺の作り物が据えられ、鷺の下には円形の台があり、そのまわりに五色の紙シデを無数に垂らした形状である。鷺鉾そのもの、あるいは五色のシデ飾りを「イナブロ」と呼んでいる。シデ飾りは虫除け、火難除けになるといって、人々は鷺を倒して奪いあい、持ち帰って箪笥に入れておくという。鷺鉾は後に地面に倒され、わざと壊すかのように縄で曳き回され、祭りの終わりに鷺の毛をむしるのだといって五色のシデがむしられる。
以上のように、本件は、芸能の構成内容から中世後期にみられる祭礼芸能の姿を今にうかがわせる貴重な民俗芸能であり、少年たちによる長刀踊りや棒振りを伴い、また「花」や「鷺」と呼ぶ鉾が出るなどの特色も有している。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))北川家住宅土蔵滋賀県守山市三宅町字里ノ内735-5
志那街道沿いの集落内で、敷地北東隅に建つ。桁行六メートル規模で、土蔵造二階建、切妻造桟瓦葺とし、南西面に下屋を廻らす。外壁漆喰塗で北東面に腰高に竪板を張り、両妻面に開口を設ける。二尺近い成の棟木と母屋に流し板を張る特異な小屋形式をもつ土蔵。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)伊勢遺跡滋賀県守山市
滋賀県南東部,野洲(やす)川が形成した標高100m程度の扇状地の微高地上に営まれた弥生時代後期を中心とする集落跡。遺跡の広がりは東西約700m,南北約450m,面積約30haに及ぶ。
遺跡の北側と東側では溝が,南側には川の跡があり,集落域を区画したとみられる。集落域の東側では弥生時代後期中葉と考えられる,周囲に焼成(しょうせい)された壁材が施され,床面は貼床(はりゆか)の上に質の良い粘土を貼り,焼き締められたという,国内に例のない大型竪穴建物(たてあなたてもの)が発見されている。後期中葉には大型掘立柱(ほったてばしら)建物3棟(①桁行(けたゆき)4間・梁行(はりゆき)2間,②桁行5間・梁行1間,③桁行3間・梁行1間)がL字状に配置され,さらにそれを区画する柵が確認されている。その周囲からも大型掘立柱建物が弧状(こじょう)に配置された状態で発見されている。後期後葉にも大型掘立柱建物が,弥生時代終末期から古墳時代前期初頭には竪穴建物が確認されている。
伊勢遺跡は弥生時代後期に始まる集落跡で,柵を伴う大型掘立柱建物群は弥生時代から古墳時代への移行期,拠点集落が解体し首長居館(しゅちょうきょかん)の成立する段階における集落の中枢空間の構造を示す貴重な例である。また,近江地域における政治状況を知ることができる点でも重要である。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)下之郷遺跡守山市下之郷町
下之郷遺跡は琵琶湖の南岸に注ぐ野洲川流域に形成された沖積地に向かい,東から西に緩やかに傾斜する扇状地の端部に営まれた,弥生時代中期の環濠集落跡である。昭和58年,都市計画道路の建設に伴う守山市教育委員会による発掘調査により3重の濠が南北で確認され,巨大な環濠集落であることが判明した。その後小規模な調査を重ねた結果,3重の環濠のさらに外側にも濠があり,最多で9重になることが確認された。最も内側の濠で囲まれた範囲は東西262m,南北201mで約4.2ha,最も外側の濠を含めると約25haに達するものと推測されている。
環濠は幅5m,深さ1.5mである。最も内側の濠の北西側においては幅3mにわたって土が埋められ土橋状を呈する。その両側には柵,環濠の内側には門柱や掘立柱建物と考えられる柱穴群がそれぞれ確認され,ここが出入り口であったことを示唆する。なお,この周辺から銅剣・磨製石剣・打製石鏃などの武器が出土しており,出入り口付近で戦闘行為があったという考えもある。
住居跡は三重の環濠の内外から発見されている。特に内側からは多数の柱穴が発見され多くの掘立柱建物や壁立式建物があったことを示している。その中心部には,溝によって区画された東西75m,南北100mの方形区画があり,内側には他よりも規模の大きい独立棟持柱をもつ掘立柱建物が確認された。ここが集落の中枢部であったと考えられる。
出土遺物は豊富である。土器・石器のみならず,金属器や木製品が良好な状態で多数検出されている。このほかにも,樹木,葉,種子や動物の骨なども遺存しており,当時の自然環境や人々の食生活を考える上で貴重である。
下之郷遺跡は,近江地域で最大規模の環濠集落である。しかも,出入り口や方形区画が確認される等,集落の内部構造が判明し,多種多量の遺物,とりわけ木製品や自然遺物が良好な状態で遺存しており,弥生時代中期の政治動向や社会,さらには当時の人々の暮らしや環境などを知る上できわめて貴重な遺跡である。よって史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。
下之郷遺跡は琵琶湖の南岸に注ぐ野洲川流域に形成された沖積地にあり,東から西に緩やかに傾斜する扇状地の端部に営まれた,弥生時代中期の環濠集落跡である。昭和58年,都市計画道路の建設に伴う守山市教育委員会による発掘調査により3重の溝が南北で確認され,巨大な環濠集落であることが判明した。その後の小規模な調査を重ねた結果,3重の環濠のさらに外側にも溝があり,最多で9重になることが確認された。一番内側の濠で囲まれた範囲は330m,南北260mで約7ha,もっとも外側の濠を含めると約22haに達するものと推測されている。
環濠は幅5m,深さ1.5mである。最も内側の濠の北西側においては幅3mにわたって土が埋められ土橋状を要する。その両側には柵跡,環濠の内側には門柱や掘立柱建物と考えられる柱穴がそれぞれ確認され,ここが出入り口であったことを示唆する。なお,この周辺から銅剣・磨製石剣・打製石鏃などの武器が出土しており,出入り口付近で戦闘行為があったという考えもある。
住居跡は三重の環濠の内外から発見されている。特に内側からは多数の柱穴が発見され多くの掘立柱建物や壁立式建物があったことを示している。その中心部には,溝によって方形に区画された東西100m,南北70mの空間があり,内側には他よりも規模の大きい独立棟持柱をもつ掘立柱建物が確認された。ここが集落の中枢部であったと考えられる。
出土遺物は豊富である。土器・石器のみならず,金属器や木製品が良好な状態で多数検出されている。このほかにも,樹木や葉・種子・動物の骨なども遺存しており,当時の自然環境や人々の食生活を考える上で貴重である。
下之郷遺跡は,近江地域で最大規模の環濠集落である。しかも,出入り口や方形区画が確認されるなど,集落の内部構造が判明するとともに,多種多量の遺物,とりわけ木製品や自然遺物が良好な状態で遺存しており,弥生時代中期の政治動向や社会,さらには当時の人々の暮らしや環境などを知る上できわめて貴重な遺跡である。よって史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。