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兵庫県・洲本市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)洲本城跡洲本市小路谷
洲本城跡は,淡路島の南東,洲本市街地の南側にそびえる標高約130mの三熊山に所在する,戦国時代から江戸時代にかけて淡路国統治の中心となった山城跡である。東西約800mの範囲に総石垣の曲輪が展開する。大手門を南側に開き,北奥の最高所に天守を配して紀淡海峡を見下ろし,遥か彼方に大阪・堺の市街地を遠望する。
天守の南下に本丸,続いて南東側に南の丸,東の丸・用水池・武者溜まりを,西側には籾倉,西の丸を配し,北側の急斜面には2本の登り石垣と北側斜面を守る小規模な郭群,10数本の大規模な竪堀を設けている。各郭の石垣は、ほんとんどは野面積みであるが,隅石垣などの一部には打ち込みはぎの算木積み技法が用いられている。石材は三熊山産の和泉層群の砂岩及び礫岩である。
洲本城は,戦国時代前期に紀伊の水軍勢力の安宅氏によって築城されたと伝えられており,江戸時代の地誌「淡路四草」(「淡路常磐草」「淡路草」「堅磐草」「味地草」)は永正7年(1510)の安宅河内守、大永6年(1526)の安宅隠岐守治興による築城の両説を載せている。天正10年(1582)には,織田系大名の菅氏・仙石氏が短期間この城に拠ったが,同12年から慶長14年(1609)までの24年間は,豊臣系大名の脇坂安治が在城して紀淡海峡・大阪湾を守備した。脇坂氏が伊予国大洲に移封された後には藤堂高虎,池田輝政・忠雄が淡路を領したが,この時期の城史はあまり明瞭ではない。元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣秀頼が滅亡すると,淡路一国は阿波徳島藩・蜂須賀氏に加増された。寛永8年(1631)から12年までの一時期,淡路支配の拠点が由良城(洲本市)に移されたが,12年には「由良引け」によって再び洲本城に政治の拠点が戻り,以後明治維新まで洲本城が淡路統治の機能を担い続けた。本丸跡及び東の丸跡を中心に、織豊期の瓦や碑が出土しており,中には脇坂氏の家紋である「輪違い紋」瓦や朝鮮系め滴水瓦なども含まれている。
方形プランの本丸,平虎口,内柵形,折れを多用した石垣,用水池などの現存する城郭施設は,脇坂段階のものを寛永期以降に一部改修したものと考えられるが,各遺構は長い歴史過程を反映して,築造・改修の時期が複雑に入り交じっている。遺構の詳細な分類と変遷の解明は今後の今後の研究課題であるが,竪堀群は安宅氏・戦国期段階、倭城との関係が想定される登り石垣(竪石垣)は文禄・慶長期の所産と推定されている。
洲本城跡は,戦国時代から幕末まで,淡路一国の統治の 拠点となった城郭で,海に臨む水軍の拠点城郭としても貴重な遺跡である。遺構の遺存状況も極めて良好であり,戦国期,文禄・慶長期,寛永期などの各時期の築城技術が層を成すよう累積されている。よって史跡に指定し,保存と活用を図ろうとするものである。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))米田家住宅祠兵庫県洲本市宇山2-5-4
敷地北西隅,土蔵西側にある屋敷神を祀った施設で,花崗岩の精巧な切石積基壇上に南面して建つ。1間社流造,屋根銅板葺で,軒は一軒繁垂木とし,組物を上げ,絵様付の虹梁や長押などで軸部を固める。小規模であるが,本格的な形式で精巧につくられている。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))米田家住宅下納屋兵庫県洲本市宇山2-5-4
主屋背面の東側に並行して建つ。桁行約8m,梁間約1mの細長い建物で,屋根は片流れの桟瓦葺,真壁造である。内部は計4室に間仕切り,各室毎に主屋側へ引き違い戸を入れる。類例の少ない収納施設であり,当地方における大邸宅の生活の一端を示している。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))米田家住宅土蔵兵庫県洲本市宇山2-5-4
敷地の北西部に南面して建つ。土蔵造,2階建で,屋根は東西棟の切妻造,本瓦葺になる。基壇は花崗岩の精巧な切石積で,外壁は階境に水切をつけた漆喰塗,正面中央の扉口に桟瓦葺の庇を付ける。つくりは全体に丁寧で,大邸宅の付属施設として欠かせない存在。