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岩手県・西磐井平泉町

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)旧観自在王院庭園西磐井郡平泉町

旧観自在王院庭園

 観自在王院は、奥州藤原氏の政権中枢として12世紀に繁栄を誇った平泉の浄土伽藍である。12世紀半ばに奥州藤原氏第二代基衡の妻が自らの居所を寺としたのが最初で、その後変転を経て、元亀4年(1573)の一揆に伴って発生した火災により大阿弥陀堂及び小阿弥陀堂などの堂宇が完全に焼失したとされている。
 昭和29年から31年度に実施された学術発掘調査及び昭和4747年から52年度に行われた整備事業に伴う発掘調査により、敷地の規模と敷地内に配置された建物及び庭園等の諸施設について概略が判明した。幅約30m(100尺)の南北道路を介して西側の毛越寺に接し、敷地の北に寄せて大阿弥陀堂・小阿弥陀堂などの主要建築群が建ち並び、南半部に広大な池が展開する。池の外周は草止めの護岸のところどころに礫をあしらい、大小の景石を配して随所に見どころのある汀の景を造る。また、池中の中央やや東寄りには盛土により中島を造成している。池の水は毛越寺境内の北東隅に位置する弁天池を水源とし、南北道路を横断して観自在王院の敷地内に引かれた後、緩やかに蛇行する遣水を経て池へと導かれる。特に、遣水が池に流れ込む位置には大きな石を伏せるようにして組み、雄大な滝の景を構成している。簡素ではあるが動的な水の姿を表した流れの部分と、広々と静止する池の水面、そして両者の接点に躍動感のある滝の姿を表現したものである。昭和48年から53年度に庭園跡を含む敷地全体の修復・整備工事が行われ、旧観自在王院庭園として現在見る庭園の景観が再現された。

 平泉には、観自在王院のほかに毛越寺、無量光院など顕著な価値を有する浄土伽藍の遺跡が存在する。毛越寺は第二代基衡が造営した薬師如来を本尊とする伽藍で、金堂・庭園(橋・中島)・背後の塔山がそれぞれ南北に並ぶのに対し、無量光院は第三代秀衡が造営した阿弥陀如来を本尊とする浄土伽藍で、阿弥陀堂、庭園(橋・中島・拝所)、背後の金鶏山が東西方向の軸線上に明確に並ぶ配置構成を採る。毛越寺は鎮護国家を祈願して造営された伽藍であり、無量光院は当初から西方極楽浄土を象徴して造営された伽藍であったが、観自在王院は途中で住宅を喜捨して伽藍に改めたという造営の経緯が影響したためか、西方極楽浄土を象徴する伽藍でありながら、伽藍の軸線が東西方向ではなく南北方向に定められている。
 また、観自在王院の庭園は、毛越寺の庭園と比較すると池の護岸など庭園の意匠・構造が全般的に簡素だという点においても特徴がある。毛越寺庭園の遣水は全体を礫及び景石で覆うのに対し、観自在王院の遣水は優美に湾曲する意匠ではあるが、ごくわずかの石材のみを用いたほとんど素掘りに近い構造を成す。
 昭和48から53年度の修復・整備工事は、このような庭園の特質を十分踏まえ、その本質的価値の顕在化を目的として実施されたものである。

 以上のように、旧観自在王院庭園は平泉に造営された浄土伽藍の庭園の中でも独特の意匠と構造をもち、それらの系譜上の位置付けのみならず、日本庭園史上における学術的価値も極めて高い。庭園全体の地割及び景観構成のみならず、遣水・滝石組・汀線等の細部の意匠・構造においても芸術上、観賞上の価値は高く、よって名勝に指定し保護を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)金鶏山西磐井郡平泉町

金鶏山

 金鶏山は、平安時代末期に栄えた奥州藤原氏の拠点、平泉にある独立した小高い山である。平泉には藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡が造営した中尊寺、毛越寺、無量光院及び政庁「平泉館」と推定される柳之御所遺跡などの施設が点在しており、金鶏山はその中央西側に位置する。標高は98.6m、山裾との比高約60mで、なだらかで整った円錐形の山容をみせる。東裾には、広く造成された平坦面に12世紀前半の翼廊を備えた礎石建物が確認されている花立廃寺跡があり、南裾には毛越寺の子院千手院がある。
金鶏山は江戸時代から金の鶏が埋められているとの伝承がある。昭和5年(1930)に、それを掘り出そうとして頂上付近が濫掘された際に、経塚に伴う銅製経筒や陶器の壺・甕などが掘り出された。その際の記録と出土品の写真が残されており、東京国立博物館と千手院には、銅製経筒1点、陶器の壺・甕・鉢計8点、平瓦1点、刀子・鉄鏃残片多数などが保管されている。記録によれば、経筒を納めた穴には玉石や木炭が敷き詰められていたという。陶器には渥美産の壺と片口鉢が各1点、常滑産の三筋壺1点、甕5点がある。確認される銅製経筒と経容器と推定される陶器の壺から見て、経塚は数基は営まれていたと考えられる。陶器はいずれも12世紀代の藤原氏の時代のもので、多くは12世紀半ばから末葉の、三代秀衡期のものが多いが、渥美産の袈裟襷文壺は形態・文様・押印の特徴などから前半代にさかのぼる優品であり、二代基衡期あるいは初代清衡期の末頃に比定される。これらは時期や遺物の内容から見て、藤原氏と密接に関係した経塚と推定される。
 一方、金鶏山は平泉の中にあって目立つ山容であり、特別の意味合いを有していたと考えられる。基衡が造営した毛越寺境内の東辺は、金鶏山の山頂から真南に位置し、同時に幅30mの南北道路の西端に当たる。この道路に直交する東西道路は毛越寺の南辺に面し、近年の発掘調査により東に延びて平泉の基幹道路となることが確認されている。これにより、金鶏山は毛越寺の寺域及び基幹道路を設定する際の基準点となったことが知られる。さらに、秀衡が造営した無量光院は、宇治の平等院鳳凰堂を模した阿弥陀堂であるが、東面する本堂とその正面にある中島の中軸線を西に延長すると金鶏山の山頂に達する。中島から本堂を望むとその背景に金鶏山が横たわり、春秋の彼岸頃にはその頂にまさに夕日が没し、西方に極楽浄土を想念する日想観を試みる場でもあったと考えられる。
このように、金鶏山は平泉の中にあって、藤原氏と密接に関係したと考えられる経塚が営まれるとともに、毛越寺や基幹道路など平泉の都市計画上の基準点として利用され、かつ無量光院と一体的に宗教世界を構成するなど、平泉において特別な歴史的意義を有している。また、平泉のどこからでも望めるその山容は景観上も重要な位置を占めている。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)達谷窟西磐井郡平泉町

達谷窟

達谷窟は岩手県南部、奥州藤原氏の拠点平泉の南西約6kmに位置する。北上川の支流である大田川沿いの谷を西にさかのぼると、谷の分岐点となる丘陵尾根の先端部に現在の達谷西光寺の境内がある。境内西側には、東西長約150m、最大標高差約35mの岸壁があり、その下部の岩屋に懸造の窟毘沙門堂が造られている。この西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。これらの岸壁を中心にした建物と磨崖仏が達谷窟を象徴するものであり、現在でも達谷西光寺の境内に往時の面影をとどめている。
 『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日条によれば、源頼朝が平泉を攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に「田谷窟」に立ち寄ったとされる。これが史料上の初見である。また、同条によれば、この岩屋は坂上田村麻呂が当地を攻めた際、蝦夷が要塞として使っていたもので、のちに田村麻呂がこの前に多聞天像を安置した九間四面の精舎を建てて西光寺と号したという。位置から見てこの岩屋は当時の幹線道路である「奥大道」の経路に面していたことが推測される。
 窟毘沙門堂は達谷西光寺の境内にあるが、西光寺はその別当であり、両者は厳密に区別されていた。窟毘沙門堂は近世初期の建物が昭和21年に焼失し、昭和36年に再建されて今日に至っている。この南側に蝦蟇が池があり、その中島に弁天堂が建っている。昭和63年、平泉町教育委員会が窟毘沙門堂の前にトレンチを設定して発掘調査したところ、東西に延びる石組みが確認された。これは川原石を積み上げた池の護岸と考えられ、大量の「かわらけ」(土師器皿)が出土した。かわらけは柳之御所遺跡など平泉の中枢部で出土するものと同じく12世紀後半に比定される。この成果から考えると、現在の蝦蟇が池は藤原氏の時代までさかのぼり、仏堂の前面に池が伴うという浄土庭園に通じた空間構成が形成されていたと考えられる。
 窟毘沙門堂の東側には現在の西光寺の本堂や金堂、不動堂などがある。さらにその南東側の「ようげ」と称される地の背後の尾根には空堀が確認され、中世の要害と推定される。達谷窟は、中世には窟毘沙門堂を中心に周辺に広く多数の子院が分布していたことが知られるが、近世以降に別当西光寺と脇院鏡學院を残して退転した。しかし、達谷窟としてその後も広く信仰の対象となってきた。
このように達谷窟は、藤原氏の時代から象徴的な岸壁の岩屋に仏堂を造り、その前面に池を伴う有力な寺院であり、中世には周辺に子院を有していた。したがって、平泉における宗教施設の実態を理解する上でも欠くことのできない重要な意義をもっている。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)柳之御所・平泉遺跡群西磐井郡平泉町、奥州市

柳之御所・平泉遺跡群

 岩手県南部の北上盆地南端に奥州藤原氏三代の根拠地として著名な平泉がある。藤原氏は平安時代末期に奥羽地方に権勢を誇り、その造営にかかる中尊寺、毛越寺、無量光寺などの遺構は特別史跡として保存され、往時の面影を伝えている。柳之御所遺跡はその東北部、北上川に面した台地上の柳之御所と称される地に所在し初代清衡、二代基衡の居館跡と言い伝えられてきた。建設省がこの遺跡を縦断する位置に平泉バイパスと一関遊水地堤防事業を計画したため、財団法人岩手県文化振興事業団と平泉町教育委員会は昭和六十三年から建設予定地内の発掘調査を実施した。その結果、平安時代末期の堀に囲まれた大規模な遺構などを発見し、これが藤原氏と密接に関連した重要な遺跡であることが判明した。そのため平成四年、五年には、遺跡の明確な時期や性格を把握することを目的に、県教育委員会と平泉町教育委員会が周辺の確認調査を実施した。
 遺跡は北西から南東に流れる北上川を北に臨む台地上に立地する。その南側は猫間が淵と呼ばれている沢地に画され、川にそって帯状の形状を呈し、その範囲は最大長七二五メートル、最大幅二一二メートル、面積的一〇ヘクタールに及ぶ。遺跡は遺構のあり方から見て東西に二分される。東半部はそれに隣接する堀の外側の地区である。東半部を区画する堀は幅約一〇メートル、深さ約二から五メートルの規模ほもち、一部二重に北上川に面した北側を除いて巡っており、東西三〇〇メートル、南北二〇〇メートルほどの空間を形成している。堀の内外を結ぶ橋は二か所で確認されている。一方の橋は南側に位置する秀衡の居館とされる加羅御所跡との間に架けられており、堀内部の北側に向かって幅八メートルの道路が取り付き、塀で区画された部分に達する。塀の西側には複数の大型建物のほか園池や井戸などが存在する。建物には梁間四間、桁行九間の四面庇付の大型建物もある。建物、塀には三時期ほどの変遷が確認される。これらの遺構と質量ともに卓越した出土遺物は、この周辺が堀の内地区における中心的な空間であることを示す。
 堀の外側の地区はほぼ中央に幅約七メートルの東西方向の道路があり、これに面して溝で囲まれた方形の区画が四つ確認される。それぞれの区画の内部には庇付の大型建物や井戸があり、堀の内部と関連した屋敷群と推定される。
 出土遺物は種類が豊富で量もきわめて多い。かわらけ・白磁などの土器・陶磁器類、瓦、内耳鉄鍋・鏡・輪宝などの金属製品、食膳具・呪符・形代・建築部材などの木製品、硯などの石製品、動植物遺体などがある。いずれも東北地方では出土例が稀なものが多い。総出土量が十数トンにおよぶかわらけは、当時の平安京などで儀式の際に使用される使い捨ての食器とされ、儀式がさかんに執り行われていたことをうかがわせ、遺跡の性格を暗示する。このほか折敷の底板に墨書された寝殿造りの建物絵画や「人々給絹日記」という表題で人名を列記した文字資料も注目される。
 出土した土器や折敷の年輪年代から、遺跡の中心的な年代は十二世紀後半に比定され、ほぼ秀衡の時代に相当する。また遺構・遺物の内容は、この遺跡が平泉において中心的な位置を占めていたことを強く示唆する。遺跡の南側には秀衡が建立した無量光院跡や、秀衡の日常生活の場とされる加羅御所跡の推定地があり、遺跡周辺は秀衡の時代に重要な施設が集中していたと推定される。『吾妻鏡』文治五年(一一八九)九月一七日条には、秀衡の館は無量光院の北にあって「平泉館」と呼ばれていたことが記されており、柳之御所遺跡の堀の内地区が秀衡時代の政庁、「平泉館」に比定される可能性もある。
 この遺跡は、北上川を臨む台地上に立地し、大規模な堀で区画するという特異な構造の施設を中心に展開しており、奥州藤原氏の根拠地、平泉においても重要な位置を占めると考えられる。奥州藤原氏は奥羽地方に強大な勢力を伸張し、その地域独自の歴史を背景にしつつ、中世武士社会の成立過程においても重要な役割を果たした。遺跡の立地や構造にみる特異性は中世成立期の奥羽地方の特質を反映すると考えられる。これまで古代から中世の過渡的な段階における地方の支配拠点の具体的な様相はほとんど明らかにされておらず、この遺跡がもつ歴史的意義はきわめて大きい。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。