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広島県・広島市中区

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)平和記念公園広島市中区大手町

平和記念公園

第二次世界大戦の終結を決定づけたのは、昭和20年(1945)8月の広島と長崎に対する原子爆弾の投下であった。戦後における広島と長崎の復興は、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和に対する強く確かな思いに導かれて進められた。
広島の平和記念公園は、太田川(本川)が元安川と分岐する三角州の最上流部に位置する。現在の公園区域は、江戸時代から昭和初期に至るまで広島の中心的な繁華街であったが、人類史上初の原子爆弾により一瞬のうちに消滅した。昭和21年(1946)には、広島市が定めた復興計画原案に中島公園として整備することが盛り込まれたが、昭和24年(1949)に広島平和記念都市建設法が制定されたのに伴い、平和記念施設事業として整備されることとなった。同年4月20日に競技設計の公募が行われ、8月6日に145点の応募作品の中から、当時、東大助教授であった丹下健三ほか3名の設計集団が1等に入選し、これに基づき昭和25年(1950)に着工、同29年(1954)に都市公園が完成した。公園整備事業と並行して、昭和27年(1952)には原爆死没者慰霊碑(公式名;広島平和都市記念碑)が整備され、昭和30年(1955)には広島平和記念資料館などが完成した。
現在の公園内には、原爆ドーム、平和の願いを込めて設置された数々の記念碑及び慰霊碑、被爆した建築物(現レストハウス)及び樹木(アオギリ)、広島平和記念資料館などが存在する。原爆ドームは平成7年(1995)6月27日に史跡原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)に指定され、平成8年(1996)12月7日に顕著な普遍的価値を持つ文化遺産として世界遺産一覧表に登録された。また、広島平和記念資料館は平成18年7月5日に戦後における建築物としては最初の重要文化財に指定された。
原爆ドームから平和大通りに対する垂線上に公園の軸線を設定し、この軸線上に広場、原爆死没者慰霊碑・園池を経て原爆ドームが位置する丹下健三の設計には、視覚と慰霊の行為を強力に関係づけようとする優れた空間意匠及び構成が見て取れる。公園南端の平和大通りから、広島平和記念資料館のピロティと原爆死没者慰霊碑のアーチを経て原爆ドームへと延びる通視線は、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和への願いを確実に表現しようとするものである。その東西に広がる樹林の区域及び河川区域を含め、公園とその周辺の環境が持つ風致景観は優秀であり、慰霊と平和希求の象徴的な場として平和記念公園が持つ芸術上又は観賞上の価値及び公園史上の価値は高い。
このたび、丹下健三の設計思想を最もよく表し、公園の地割として良好に残された平和大通りから原爆ドームまでの中心区域を名勝に指定し、その保護を確実にしようとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)広島市中区大手町

原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)

原爆ドームは、第二次世界大戦の末期、広島に投下された原子爆弾によって破壊された広島県産業奨励館の遺跡である。
 第二次世界大戦は、昭和十四年(一九三九)ヨーロッパにおいて始まった。日本は、満州事変、日中戦争開始にともない中国大陸に軍を進めていたが、昭和十六年真珠湾等を攻撃して、いわゆる太平洋戦争が開始され、日本は、緒戦において東南アジアおよび南大平洋に戦域を拡大したが、やがて連合国の反撃を受けることとなり、昭和二十年になると、アメリカ軍による本土爆撃の激化や沖縄上陸によって、日本の敗色は濃くなっていった。アメリカ・イギリス・中国によるポツダム宣言発表の後、広島への原子爆弾投下、ソ連の参戦、さらに長崎への原子爆弾投下があり、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。
 昭和二十年八月六日、テニアン島を発進した米軍B二九爆撃機三機は広島市上空に侵入、午前八時十五分に原子爆弾を投下、爆心地を中心とする半径約二キロメートルの広島市街が廃墟と化し、およそ一四万人(昭和二十年十二月末までの総数・広島市調査)といわれる多数の人々の生命が失われた。原爆ドームは、爆心地の北西約一五〇メートルにおいて被爆した広島県産業奨励館の残骸である。
 旧広島県産業奨励館の建物は、明治四十三年(一九一〇)の広島県会決定を受け、広島県物産陳列館として、建築家ヤン・レツルの設計に基づき、大正四年(一九一五)元安川東岸の地に建設され、一部鉄骨を用いたレンガ造り三階建で、正面中央は五階、その上に銅板の楕円形ドームを載せ、洋式庭園と和風庭園をもつ瀟洒な建物として市民に親しまれた。大正十年に広島県立商品陳列所、さらに昭和八年に広島県産業奨励館と改称されたが、第二次世界大戦の激化にともない、昭和十九年に館の業務が廃止され、被爆当時は内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材統制株式会社等の事務所として使用されていた。被爆の際建物は炎上し、館内の職員は全員死亡したが、建物はからくも全壊を免れた。
 旧広島県産業奨励館は、第二次世界大戦後危険建造物の撤去が始まるなかで、その存廃が議論されたが、除却は取り止められ、いつしか人々によって原爆ドームの名で呼ばれるようになった。また昭和三十年には、原爆ドームを基軸として設計された広島平和記念公園が完成した。
 昭和三十年代後半、建物の風化が進み再び存廃の論議があったが、昭和四十一年に広島市議会が原爆ドームの保存を決議した。これを受けて保存のための募金運動が行われ、翌年募金による第一回目の保存工事が行われた。平成元年(一九八九)には再び募金運動が行われ、募金と市費により、同年から翌年にかけて第二回目の保存工事が行われた。
 原爆ドームは、二回にわたる保存工事によって被爆当時の姿をよく保ち、平和記念公園の一部として、広島市によって管理されている。なお、平和記念公園においては、原爆死没者慰霊碑前で平和記念式典が行われており、また同公園内の広島平和記念資料館に被爆資料が保存・展示されている。
 原爆ドームは、第二次大戦末期における原爆投下の歴史的事実と人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝える遺跡であり、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和希求のシンボルとなってきた。よって、日本の近代のみならず世界の歴史を理解する上で欠くことのできない重要な遺跡として、史跡に指定し保存を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)広島城跡広島市中区基町

広島城跡

天正十七年毛利輝元は郡山城から移って初めてこの地に築城、文禄二年工を竣えたといわれる。関原役後、毛利氏転封の後を承けて、福島正則これを領して修築を行ったが、元和五年幕府の忌■に觸れて封を奪はれ、同年七月浅野長晟これに代って領した。爾来山陽道の鎭として重きをなし明治維新に至り廃城となった。
城は太田川河口の平地中に営まれ、本丸は南北に稍々長い矩形をなしている。これを守って堀をめぐらし、大手虎口を堅めて堀の内に狹少な二の丸が設けられ、この本丸、二の丸は更に三の丸惣構によって囲まれている。いま遺るところの旧経始は本丸と二の丸及びその堀であって、他は早く失はれているが、天守台を始め、石垣、虎口等旧規よく遺存し、殊に島岐状に設けられた二の丸はこの種の遺構が多く失はれている現在、築城史上貴重である。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)縮景園広島市中区上幟町

縮景園

園ハ淺野家ノ別邸ニシテ泉邸トモセラル 元和年間第三代長晟ノ創設スルトコロ爾來世々ノ藩主之ニ修飾ヲ加ヘタルモ特ニ第九代重晟ハ京都ノ庭師清水七郎右衛門ヲシテ大ニ改修ヲ行ハシメ略現在ノ景觀ヲ呈スルニ至レリ 中央ニ一大苑池ヲ穿チ濯■池ト云フ中ニ十數箇ノ島嶼ヲ置ク池ハ南北ニ架セラレタル支那風ノ跨虹橋ニ依ツテ二分セラル 東部及北部ニ迎暉峯、臨瀛岡等ノ築山アリ西部ニ馬場ヲ設ク亭館ヲ各所ニ配置シ清風館ハ東北ニ豁如タル庭景ヲ眺メ明月亭ハ神田川及二葉山ノ借景ヲ有ス 江戸時代ニ發逹セル大名庭ノ一ニシテヨク舊態ヲ保存セル名園ナリ