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山口県・山口市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)徳佐(サクラ)山口県山口市

徳佐(サクラ)

山口市(やまぐちし)北東部(ほくとうぶ)の阿(あ)東徳(とうとく)佐(さ)地区(ちく)に所在する徳(とく)佐(さ)八幡宮(はちまんぐう)の参道の両側には、枝垂(しだ)れ桜を中心とする桜並木がある。徳佐八幡宮が現在の地に遷(うつ)されたのは17世紀後半で、桜並木は文政(ぶんせい)8年(1825)に当時庄屋(しょうや)であった椿(つばき)正(まさ)直(なお)が主導し、エドヒガンとシダレザクラの苗木(なえぎ)を大坂から取り寄せて植えたのがはじまりと伝わる。大正期には名所として広く知られ、地元で保護組織が結成された。戦時中に一部が荒廃(こうはい)し、戦後間もない頃には枯損(こそん)木(ぼく)の跡にソメイヨシノが植えられたりしたものの、その後エドヒガンやシダレザクラ系統個体の補植、並木の個体に由来する苗の育成など、地域の人々の長年の努力により往時のシダレザクラを中心とする風致景観への復旧が図られてきた。
徳佐八幡宮の参道は延長約370m、幅約6mで、現在その両側に52本ずつ、合計104本の桜が植わっており、そのうちの77本が枝垂れ桜の系統である。枝垂れ桜を中心とする並木は珍しく、毎年春の開花時には多くの人々が訪れる。花のほかにも、新緑(しんりょく)、夏の緑陰(りょくいん)、秋の葉の色づき、雪の中で来るべき春を待つ冬の姿がまとまりある一つの風致(ふうち)景観(けいかん)を形成する。その観賞上の価値は高く、名勝に指定して保護を図るものである。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))妙鑑寺位牌堂山口県山口市大内矢田南八丁目53

妙鑑寺位牌堂

桁行一七メートル梁間五メートル煉瓦造平屋建で、屋根は寄棟造赤色桟瓦葺。中央に塔屋が載る。イギリス積を化粧で現し四隅に柱形を付ける。内部は一室で、位牌棚と通路で構成され、天窓からの光が静謐な空間をつくる。煉瓦造の躯体が境内に異彩を放つ位牌堂。

国指定文化財(登録記念物)松田屋ホテル庭園山口県山口市

松田屋ホテル庭園

山口市中央部の湯田温泉に位置する,温泉宿に造られた庭園である。松田屋ホテルは延宝3年(1675)に松田屋旅館として創業し,幕末には志士達が逗留したことでも知られる。
現在敷地には,庭園に面して北から萩の間棟(はぎのまとう),山縣有朋命名の快活楼(かいかつろう),伊藤博文命名の群巒閣(ぐんらんかく)の3棟の建物が並んで建つが,いずれも明治から大正時代にかけて造られたもので,これらの建物の配置は現在も変わっていない。古写真等から庭園もこの時期に整備されたと考えられ,当初の基本的な地割が現在までよく保存されている。
庭園は快活楼,群巒閣等の建物の東側に広がり,高さ約4mの三段の滝,緩やかに蛇行する流れ,池泉等が造られている。水辺の護岸は低めの石が組まれ,随所に雪見燈籠・山燈籠等の石燈籠を配置する。流れや池泉には石橋,木橋が架かるほか,沢飛石も打たれ,園内を歩いて回ることができる。
松田屋ホテル庭園は,大正期に整備された当時の状態を現在までよく伝え,山口県の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))過所船旗〈天正九年四月廿八日/〉
能島村上家文書
山口県山口市後河原150-1

過所船旗〈天正九年四月廿八日/〉<BR/>能島村上家文書

 長州藩船手組村上家に伝来した資料群である。村上家の祖能島村上氏は瀬戸内海芸予諸島の能島(今治市宮窪)を拠点とし、海賊とも呼ばれた武士である。中世瀬戸内海の海上勢力として諸大名への帰属・離反により独立を維持し、畿内の各政権からも認識されたが、中世末期に毛利氏への帰属を強め、江戸時代に家臣に組み込まれた。
 過所船旗は、平絹を仕立てたもので八双と軸木が残る。中央に大きく意匠化された村上氏の家紋、右側に宛所「芸州厳嶋 祝師□」、左側に年紀・差出「天正玖年四月廿八□武吉(花押)」が墨書され、能島村上氏の当主武吉が、安芸厳島神社の社家祝師氏に発給したことがわかる。中世厳島神社は瀬戸内航路の経由地にあたり、海運業や商業活動も統括しており、能島村上氏に通行許可書的機能をもつ旗を求めたと考えられる。
 能島村上家文書199通の内訳は巻子装9巻(93通)、一紙文書106通で、正文は187通、案文は12通である。巻子装は、将軍足利義輝御内書1巻、毛利氏・小早川氏書状1巻、諸大名書状1巻、小早川隆景書状2巻、毛利隆元・元就・輝元書状1巻、毛利輝元書状2巻、毛利氏・小早川氏起請文1巻からなる。巻子は江戸時代に成巻されたもので、室町幕府将軍、毛利氏当主、小早川隆景ほか毛利氏一門、松永久秀、織田信長、豊臣秀長、大内義長、大友宗麟、三好実休、河野通直など中国・四国・九州や畿内を拠点とする大名の書状を収める。一紙文書は毛利氏一門、毛利・小早川氏の年寄・重臣・奉行衆、河野氏、羽柴秀吉およびその奉行衆など豊臣政権関係者の書状が大半を占め、その他能島村上氏領を記した知行地書上等を含む。初出は(年未詳)卯月13日付細川高国書状で、忠節の報償として村上隆勝に讃岐国塩飽島代官職を宛行ったものであり、以後塩飽島海上近辺は能島村上氏勢力圏の東界となった。下限は(慶長4年<1599>)10月2日付村上元吉宛毛利輝元書状である。文書群は毛利・能島村上両氏の関係を中心とした内容で、独立を維持した能島村上氏が豊臣政権による海賊禁止政策により次第に勢力を失い、毛利氏への依存が強まり家臣化される過程を如実に伝えるものと評価される。これらは海上交通の要衝である瀬戸内海において水軍を編成し活動した戦国期武家の具体的な活動を示すとともに、その動向と変遷を知る上で最もまとまった資料群として歴史的価値が高い。