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香川県・さぬき市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)津田古墳群香川県さぬき市
津田古墳群は、香川県の東部、播磨灘を望む津田湾臨海部を中心とした東西4.5キロメートル、南北3.5キロメートルの範囲に、古墳時代前期初頭から古墳時代中期初頭まで連綿と造られた9基からなる古墳群である。この古墳群は既に江戸時代に記録があり、大正年間から戦前においても発掘調査などの記録が残されていることから、学史的にも重要な存在であった。こうした状況を踏まえ、さぬき市教育委員会では平成16年度から23年度にかけて、測量調査及び発掘調査を行った。その結果、この古墳群が一体性をもって築かれたことがより明らかとなった。
津田古墳群は6基の前方後円墳と3基の円墳からなる。うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、赤山古墳、岩崎山4号墳、けぼ山古墳が前方後円墳であり、一つ山古墳、龍王山古墳、岩崎山1号墳が円墳である。
うのべ山古墳は墳長37メートルの前方後円墳で、前方部は撥形に広がる。墳丘構造は四国東部に特徴的な積石塚である。埋葬施設は未調査だが、墳丘上から出土した土器の年代から、3世紀後半に築造されたと考えられ、香川県内でも最古級の古墳といえる。
川東古墳は墳長37メートルの前方後円墳で、これも墳丘は積石によって築造されている。墳頂には2カ所の盗掘坑が存在するが、埋葬施設の詳細は不明である。墳丘からはわずかに壺形埴輪片が出土しており、その年代から4世紀前半の築造と推定される。
古枝古墳は墳長34メートルの前方後円墳で、前方部は撥形に開く。後円部墳頂において昭和37年に発掘調査が行われており、東西方向に竪穴式石室1基、木棺直葬1基が並列していることが確認されている。竪穴式石室からは中国鏡や玉類が、木棺からは中国鏡や玉類のほかに鉄鏃が出土し、築造は4世紀前半と考えられる。
赤山古墳は、現在では後円部のみが残存しているが、本来は墳長50メートル前後の前方後円墳であることが判明した。墳頂には割竹形石棺2基が露出しており、1基は東西方向で、もう1基は南北方向を示している。この他にも竪穴式石室1基の存在が過去の文献において指摘されており、青銅鏡や腕輪形石製品などが出土品として伝えられている。墳丘から出土した円筒埴輪や、その他の出土品の年代から、4世紀前半に築造されたと推定される。
一つ山古墳は南北27メートル、東西25メートルのやや楕円形を呈する2段築成の円墳であり、墳丘の一部に葺石が認められる。墳頂中央部には南北方向に割竹形石棺1基が直葬されている。墳丘より出土した壺形埴輪の年代から、4世紀中頃の築造と考えられる。
岩崎山4号墳は墳長62メートルの前方後円墳で、津田古墳群中では最大の古墳である。昭和26年の調査において、墳頂に南北方向を示す竪穴式石室1基が確認され、中には割竹形石棺が納められていた。副葬品として青銅鏡や貝輪、腕輪形石製品や鉄剣・鉄刀、銅鏃・鉄鏃、鉄製農工具などが確認されている。墳丘からは円筒埴輪のほか、家形埴輪などが出土している。これらの年代から、4世紀中頃の築造と考えられる。
龍王山古墳は直径25メートルの円墳である。墳頂には南北方向に全長5.9メートルの竪穴式石室1基が露出しており、大正年間に青銅鏡、鉄鏡、鉄刀が出土したとの記録がある。墳丘からは壺形埴輪と円筒埴輪が出土しており、4世紀後半の築造と考えられる。
けぼ山古墳は墳長55メートルの前方後円墳で、後円部墳頂には割竹形石棺の蓋の破片が確認されており、大正年間には人骨や青銅鏡、鉄刀や玉類が出土したとの記録があるが、埋葬施設そのものの詳細は明らかではない。墳丘からは壺形埴輪が出土しており、その年代から4世紀後半に築造されたと推定される。
岩崎山1号墳は直径19メートルの円墳であり、墳頂には南北方向に箱式石棺2基が並置されている。これらは昭和2年に発掘調査され、人骨のほか、鉄刀や鉄剣、滑石製模造品、鉄製農工具などが出土した。墳丘からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が出土しており、それらの年代から4世紀末の築造と推定される。
このように津田古墳群は、古墳時代前期初頭から中期初頭にかけて連続して築造された。当初は積石による墳丘や東西方位を指向する埋葬施設など、四国東部固有の特徴が認められるが、前期中頃になると円筒埴輪の導入や埋葬施設が南北方位に変化するなど、畿内地域の影響を受けることとなった。つまり、津田古墳群は古墳成立期における地域社会の独自性を表すとともに、それが畿内地域からの影響を受けて変容していく過程を示す貴重な事例である。また、津田古墳群に見られる割竹形石棺は、この地域で産出する火山石で製作されているが、同じ火山石製石棺は、畿内・吉備・阿波地域にもたらされるなど、津田古墳群の被葬者たちが海を介して他地域との交流を行うとともに、古墳群の立地の点からも海上交通を重視していたことが窺える点で、希有な例といえる。そして古墳時代中期に内陸部に墳長139メートルで四国最大の前方後円墳である史跡富田茶臼山古墳が出現すると、津田古墳群では古墳の築造が停止する。これは、当該期にこの地域で生じた大きな政治的統合がなされたことを如実に示している。
以上のように、津田古墳群は四国における古墳時代前期を代表する古墳群として重要であり、当該地域の政治状況を知るうえでも重要であることから、史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))旧平賀家住宅主屋香川県さぬき市志度字越窓46-1他
旧志度街道に北面する町家。桁行12m梁間10mの木造つし2階建、東西棟の切妻造の北正面西寄りに、入母屋造妻入のミセ部分を突出する。正背面に庇を付け、本瓦葺とする。漆喰仕上げで、大壁と真壁を使い分け、軒を塗り込めるなど、力強い外観になる。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)富田茶臼山古墳さぬき市大川町
富田茶臼山古墳は香川県の東部、長尾平野の東端に位置する四国地方最大の前方後円墳である。南方の讃岐山脈(阿讃山脈)から派生した低丘陵の縁辺部に立地し、丘陵の稜線に直交するように前方部を西方に向けて築造されている。後円部に立つと長尾平野を一望でき、弘法大師ゆかりの五剣山や、高松平野との結節点に聳える白山を遠望することができる。
古墳の北側には津田川が流れ、蛇行しつつ東流して播磨灘に開く津田湾に流入している。その河口の津田港は中・近世の商業港として知られているが、津田湾を望む山丘上には東讃地域を代表する前期古墳が数多く分布し、津田湾が海上交通の拠点として古くから重視されたことを物語っている。本古墳は津田湾から長尾平野に至る要点を占め、津田湾を掌握し、高松平野に連なる長尾平野を治めた被葬者の支配領域と経済的基盤が推測される。
本古墳に関しては、江戸時代の『三代物語』が日本武尊陵と記し、『全讃史』は仁徳天皇陵、もしくはその皇子である難波皇子の墳墓と推定している。後者は当地が『和名抄』にみえる寒川難破郷に比定されることに由来し、さらに寒川皇子、讃岐国造の祖とされる神櫛皇子の墳墓とする説もある。円筒埴輪の存在が古くから知られ、地元では千壺山とも呼ばれている。後円部の頂上には妙見神社が祀られ、後円部東端には中世の石仏を祀る「弥勒庵」が存在する。古墳は、昭和10年代に県道高松長尾大内線の建設によって後円部北側を掘削され、その後の開墾や住宅建設によって前方部や墳丘裾部に改変を受けているが、総じて旧状をよくとどめている。
平成元年度に大川町教育委員会によって古墳の確認調査が実施され、墳丘や周濠の規模や形態が明らかになった。
古墳は前方部・後円部ともに3段に築成されている。墳丘は全長139メートルの規模をもち、後円部の高さは15・7メートルで、前方部に比べると2・4メートルほど高い。後円部の直径91メートル、前方部の長さ四八メートル、前方部の幅77メートルで、前方部の長さが後円部に比べて短い点に形態上の特徴がある。段築の斜面長は、後円部が下から1対1対3、前方部が同様に1対1対2の比率をもち、畿内の大型前方後円墳に共通した築造企画が認められる。段築の平坦部には埴輪列が巡る。
周濠は現存する地割にその痕跡が認められ、早くからその存在が指摘されていたが、調査によって規模と形態が確定した。周濠の幅は後円部東側で幅13メートルとやや狭いが後円部両側と前方部の最大部両側、前方部前面が約20メートルの同一幅に設計されており、全体としては前方部で幅を狭めた盾形の平面形となる。深さは墳丘1段目から2メートル前後で、周濠を含めた古墳の主軸総長は163メートルである。
南方の丘陵側には、周濠の外側に幅15メートルの周庭帯が認められる。周庭帯は丘陵面よりも3〜4メートル低く、墳丘1段目とほぼ同レベルにあることから、丘陵を切断し古墳築造の基盤面として一体に形成されたことが分かる。この周庭帯は前方部北側の対称位置や後円部北東側にも遺存地割として認められる。
埋葬施設は未調査のため不明であるが、明治時代に後円部の墳頂部を掘削した際に、石室の天井石を掘りあてたという伝承がある。
出土遺物には、円筒埴輪や朝顔形埴輪のほかに、家形や蓋形などの形象埴輪の細片がある。円筒埴輪は器面が剥離するなど残りが悪いが、制作時の器面調整は縦刷毛後に連続する横刷毛を施したものが多い。透し孔は円形で、タガは断面台形のものが主流を占め、外面には黒斑が認められる。
本古墳の築造時間は、円筒埴輪の特徴や古墳の形態、築成方法などから、5世紀前半と考えられる。古墳時代前期の讃岐は、瀬戸内海沿岸地域でも独自の古墳文化を形成した地域である。積石塚の発達と前方部の中ほどがバチ形に屈曲したり、長方形の前方部をもつ特異な形状の前方後円墳の盛行を特色とする。こうした地域的特色は、富田茶臼山古墳が出現する5世紀前半頃から急速に消滅の方向に向かっている。東讃地域をみると、津田湾を中心に築造された5群15基の前期古墳が知られているが、それらの古墳群は古墳時代中期まで継続せずに、富田茶臼山古墳の出現を契機に急激に衰退する現象が認められる。富田茶臼山古墳の傑出した規模や、墳丘形態・築成方法にみられる畿内的色彩の強さを考慮すると、畿内政治勢力と緊密な結び付きを背景に、瀬戸内南岸ルートの四国東端の要衡である津田湾を掌握し、東讃地域を統合した有力な首長の出現が推測される。
以上のように本古墳は四国地方最大の前方後円墳であるとともに、四国地方における古墳時代の政治や社会の動向を考究する上でも高い学術的価値を有している。
よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。
国指定文化財(重要文化財)細川家住宅(香川県大川郡長尾町)香川県さぬき市多和額東46番地
香川県東部山地の典型的な農家で、平面形式は二室並列型になる。柱や梁のとりあつかいなど内部構造に地方的な特異な工法がみられ興味深い。