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愛媛県・宇和島市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)伊予遍路道
 観自在寺道
 稲荷神社境内及び龍光寺境内
 仏木寺道
 明石寺境内
 大寶寺道
 大寶寺境内
 岩屋寺道
 岩屋寺境内
 浄瑠璃寺道
 浄瑠璃寺境内
 浄土寺境内
 横峰寺道
 横峰寺境内
 三角寺奥之院道
愛媛県南宇和郡愛南町・西予市・宇和島市・西条市・四国中央市・上浮穴群久万高原町・松山市

伊予遍路道<BR/> 観自在寺道<BR/> 稲荷神社境内及び龍光寺境内<BR/> 仏木寺道<BR/> 明石寺境内<BR/> 大寶寺道<BR/> 大寶寺境内<BR/> 岩屋寺道<BR/> 岩屋寺境内<BR/> 浄瑠璃寺道<BR/> 浄瑠璃寺境内<BR/> 浄土寺境内<BR/> 横峰寺道<BR/> 横峰寺境内<BR/> 三角寺奥之院道

遍路道は空海(くうかい)(諡号(しごう)は弘法大師(こうぼうだいし))ゆかりの寺社を巡る全長1,400kmにも及ぶ霊場巡拝の道で,弘法大師の足跡を追体験する四国を一周する信仰の道である。指定にあたっては,阿波・土佐・伊予・讃岐の旧国名を冠し,それぞれの遍路道を呼称することとしている。伊予遍路道は延長500km以上あり,四国のなかで距離が一番長い。主要街道と重複するため,近代以降改変された箇所が多いが,今回指定を行う箇所のようになお旧状をとどめている箇所がある。仏木寺道は第41番札所龍光寺(りゅうこうじ)から第42番札所仏木寺に至る道の一部で,龍光寺から西に位置する尾根を横断し,谷部を進む部分約0.45kmに旧状をとどめる。横峰寺道は第59番札所国分寺(今治市)から第60番札所横峰寺に至る道で,二十丁の位置にある湯浪(ゆうなみ)休憩所からの山道に旧状をとどめる。指定の対象となるのは五丁石のある付近までで,妙之谷川(みょうのたにがわ)上流の谷川に沿って進み,途中谷川を交差しながら,十一丁付近からは急峻な尾根を蛇行して登る道である。延長は約 1.7kmを測り,道際に舟形や角柱形の丁石が立っている。これらの道はいずれも遺存状況が良好で,伊予における遍路道の実態を考える上で重要である。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))木屋旅館本館愛媛県宇和島市本町追手2-86-12

木屋旅館本館

宇和島城下の南東側で、通りに南面する二階建の木造旅館。一階は二〇メートル超の間口に差物を通し、出格子を設ける。桁行中央部を玄関ホールや階段室とし、東西に配する客室では、室ごとに意匠を違えた座敷飾を備える。城下町の風情を伝える和風旅館である。

国指定文化財(重要文化的景観)遊子水荷浦の段畑宇和島市

遊子水荷浦の段畑

四国島の西端に位置する宇和島市遊子の水荷浦は、豊後水道に向かって延びる三浦半島の北岸から、さらに宇和海及び宇和島湾に向かって分岐する今一つの小さな岬の小集落である。岬の東南側に当たる集落背後の急傾斜面には、等高線に沿って小さな石を積み上げて壮大な雛段状の畑地が形成され、特に水荷浦では「段畑」と呼ばれている。近世から近現代を通じてサツマイモやジャガイモの栽培により形成された「段畑」は、宇和海沿岸の風土とも調和して、イワシ漁やハマチ養殖業とも深く関連しつつ、農耕を継続的に営むことにより緩やかな発展を遂げた特色のある文化的景観である。
水荷浦が位置する三浦半島の周辺は多島海・溺れ谷などから成る顕著なリアス式海岸で、急峻な丘陵斜面と深い海域から成る独特の地形を持つ。年間を通じて小雨であり、特に冬季には西からの季節風が強く吹き付ける。地質は砂岩・頁岩の互層から成り、乾燥性で酸性が強く、腐植土層の薄い土壌である。このような自然環境に基づき、水荷浦を中心とする岬とその周辺を構成する丘陵及び海域では、農業と漁業が安定的な生態系の維持に貢献してきた。特に、現在ジャガイモの栽培が行われている「段畑」では、周囲の二次林や海域と比較すると、棲息する生物の多様性が低くなっているのが特徴である。
「段畑」は平均勾配が約40度で、畑地の縁辺を成す石積の平均高さは1m以上にも及ぶ。石積の随所には登降用の石段があるほか、左右の両端には耕作者が登降するための通路と大雨の時の排水路を兼ねた石組の溝が設けられている。乾燥した土質に基づき、全体として精巧な構造を維持しており、耕作者による除草等の管理状況も極めて良好である。
「段畑」を含む周辺の地域は、地域発展の歴史に関する土地利用の変遷を示している。江戸時代後期にムギ・サツマイモの栽培が始まり、明治時代の養蚕の興隆によりクワの栽培へと変化したが、食料・アルコール製造を目的として大規模なサツマイモの栽培へと発展し、第二次世界大戦後は柑橘類の栽培へと大転換した。その後、多くの「段畑」は耕作放棄地となったが、現在、集落に接してわずかに残された「段畑」では主としてジャガイモの栽培が行われ、地域住民による「段畑」の再生事業が進められている。
昭和30年代まで沿岸海域で行われてきたイワシ漁のみならず、イワシの不漁に伴って宇和島湾内で展開したアコヤ貝の養殖による真珠生産、その後に転換したハマチの養殖業は、それぞれ「段畑」における農業とも緊密な関係の下に、地域の生業を相互補完的に維持するのに寄与してきた。
以上のように、「水荷浦の段畑」は、宇和海沿岸の急峻な地形や強い季節風など地域の風土とも調和しつつ、近世から近現代に至るまで継続的に営まれてきた半農半漁の土地利用の在り方を示す独特の文化的景観であり、我が国民の生活又は生業を理解する上で欠くことのできないものであることから、重要文化的景観に選定して保護を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)天赦園宇和島市天赦公園

天赦園

 宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部にあり、第7代宇和島藩主伊達[[宗紀]むねただ]の退隠の居所潜淵館の建築と同時に文久3年(1862)に勘定奉行の釆配によって築造されたものである。初代藩主秀宗は、仙台藩主伊達政宗の長子であって当藩主となったが、天赦園の名は、政宗が退隠のときの詩の一句(「残躯ハ天ノ縦ストコロ」)からとったものという。潜淵館は明治29年に取り払われ、その跡は今は芝生となっている。
 広い池を主体とする庭園で、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に一小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いてある。池の東部は延びて枯流(玉石敷)としてある。園の周囲はクロマツ・クス・ウバメガシ等の常緑樹で外景を遮断し、園内には、各種多様の暖温帯性植物が植栽されており、ビロウのごときも庭樹として用いられているが、中でもタケとフジの種類が多く本園独特の風致を生み出している。
 作庭年代は比較的新しいが、全体の意匠と細部の技法にみるべきものがあり、かつ庭景の変化が豊富であって廻遊式庭園の特色をよく表現している。鴨場などの実用的施設も残存し、小規模ながら江戸末期における大名庭(だいみょうにわ)の形態もとどめている。伊達宗彰氏の所有である。