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宮城県・東松島市

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))大高森薬師堂宮城県東松島市宮戸字瀬戸浜23-1

大高森薬師堂

特別名勝松島の宮戸島に所在。公園整備の一環で建設された薬師堂。正面三間側背面二間宝形造桟瓦葺。丸柱を長押で固め組物は舟肘木で軒は一軒疎垂木。正面に板唐戸、側面に連子窓を建てる。向拝を持たず、瓦当に重弁蓮華文を施す等、復古的な様相を示す仏堂。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)赤井官衙遺跡群
 赤井官衙遺跡
 矢本横穴
宮城県東松島市

赤井官衙遺跡群<BR/> 赤井官衙遺跡<BR/> 矢本横穴

関東からの移住者を中心とした集落の形成,それを基にした郡家(ぐうけ)ないし城柵の造営といった変遷をたどることができるとともに,蝦夷(えみし)の居住域内における官衙(かんが)の実態や郡司をはじめとする官人の出自をたどることができる。律令国家成立期の東北経営を理解する上で重要な遺跡。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)里浜貝塚東松島市

里浜貝塚

 島々の白い疑灰岩と松林が青い海に映える松島湾は、縄文時代の初めごろから形成されはじめた。やがて早期末になると沿岸や島々に縄文人が居住し始め、豊かな水産資源を利用した結果、多くの貝塚を残した。湾の東と西、そして湾の中央に位置する湾内最大の島である宮戸島に、3集団がそれぞれの領域をもって拠点集落を営んでいた。東岸の集団は、大木囲貝塚から2月田貝塚、西岸の集団は道珍浜貝塚から西ノ浜貝塚に拠点集落を移し、宮戸島には里浜貝塚が継続して営まれていた。
 里浜貝塚は宮戸島の西部にあり、松島の中でも4大観の一つとして有名な大高森の西に位置する。学界では明治30年代からその存在が注目され、大正7・8年には東北帝国大学理学部の松本彦七郎が日本人種論の決着のために人骨を発掘し、併せて古地形・海面変動・動植物などの古環境について先駆的な研究を実践した。特に層位学的発掘が我が国で最初に行われ、土器型式編年研究の基礎を作った遺跡として名高い。その後、数々の調査が実施されたが、昭和26年から37までは東北大学教育学部が土器編年研究を主目的に数地点を継続的に発掘調査した。また昭和54年からは東北歴史資料館が、縄文人の生業と食生活の復原を主要テーマに西畑地点・西畑北地点・台囲頂部地点・梨木東地点・風越地点を発掘調査している。
 本貝塚は、曲がりくねって東西に延びる標高約20〜40メートルの丘陵上に立地し、南北幅約200メートル、東西長約800メートルの規模をもつ。当初は丘陵の東と西の端に縄文前期初頭から小規模な集落が営まれたが、その後西側の丘陵頂部を中心に前期初頭から中期末、東側の南斜面を中心に中期末から後期初頭、西側の南斜面を中心に後期初頭から晩期初頭、中央部の北斜面を中心に晩期初頭から弥生時代初頭までそれぞれ大規模な集落・貝塚を残した。その後、中央部に小規模な集落が営まれ、浜辺に貝塚や製塩作業場が少なくとも平安時代まで継続して営まれた。
 長期間の居住によって結果的に極めて大規模な遺跡が形成され、所によっては厚さ6メートル以上の貝層が堆積している。しかし、これまではいずれも貝層部分を小規模に発掘調査したに過ぎない。晩期を中心とした中央部の集落跡の貝塚から多数の埋葬人骨が発見され、集団墓地の様相が明らかになっているほかは、各集落の内容は不明といわざるをえない。ただし、各集落の貝塚の発掘調査によって土器型式の変遷、豊富な骨角器や石器の内容、さらには多量で多様な食料残滓などの発見によって、縄文時代の生業と食生活の実態あるいは自然環境の変遷が次第に明らかとなってきている。
 豊富に出土した骨角器には優品が多く見られ、漁撈具のほか、鹿の骨などで制作した骨箆、鳥骨製刺突具などの加工具、鹿角製の腰飾り、猪牙製のペンダント、鳥骨製の管玉、貝輪など多様な装飾品が発見されている。また南海産のオオツタノハ製の貝輪やイモガイ製の貝玉、磨製石斧などは、遠隔地との交易を示す。
 生業と食生活については、スガイ・イガイ・クボガイ・マガキ・カリガネエガイなどの岩礁性の貝、アサリ・オキシジミ・オオノガイなどの砂泥性の貝、多量なマイワシ・アイナメなどの小型魚やフグ類、スズキ・マダイ・クロダイ・マグロなどの大型魚が捕獲され、クリ・ハシバミ・クルミなど堅果類が採取され、シカ・イノシシ・そしてウミウ・ヒメウ・カモ類などの鳥類が目立って捕獲され、食料となっていた。小型魚は囲い込みによる大量捕獲、大型魚は鹿の角で制作した各種の釣針・銛・ヤス・鏃などの漁撈具ので捕獲されたと推定される。また遅くとも縄文時代晩期には、浜辺に土器製塩と貝〓(*1)きの作業場が営まれたことも特筆される。生産された塩は、約20〜30キロメートルも離れた山手の集落に運ばれ、代わりに石器の石材などが里浜にもたらされた。地域内の交易が盛んに行われていたことを示す。
 本貝塚は、縄文時代から平安時代まで土器型式が断絶なく残され、海辺の集団として稀に見る長期にわたり継続して生活を営んだ跡であって、地域の集団の歴史を極めて良好に示している。特に四季折々の恵みを計画的に採り入れ、豊かな食生活を送り、土器製塩と貝〓(*1)きの作業場を設けるなど、集団の協業と分業あるいは交易をはかっていたことが明らかになった。さらに、各種の食料残滓によって海況や底質、鳥獣類や堅果植物の種類など自然環境も明らかになっている。このように里浜貝塚は極めて豊かな情報をもっており、縄文時代の我が国の歴史を明らかにする上で重要である。よって史跡に指定し保存をはかるものである。