カテゴリで見る
福岡県・柳川市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)水郷柳河福岡県柳川市
筑後川の河口付近にあたり,沖端川(おきのはたがわ)が有明海へと注ぐ低地には,多くの童謡の作詞で知られ,明治期から昭和初期にかけての日本の代表的な詩人として名高い北原白秋(きたはらはくしゅう)(本名隆吉(りゅうきち),1885~1942)の故郷柳河とその周辺の漁村が広がる。白秋の生家が残る沖端(おきのはた)の漁村及び若き日を過ごした柳河の旧城下の界隈を縦横に巡る掘割(ほりわり)の水面,それらに臨んで深い影を落とす三柱神社(みはしらじんじゃ)・水天宮(すいてんぐう)などの神社境内の樹叢,水面との緊密なつながりを持つ敷地構成・風致に特質がある白秋(はくしゅう)生家(せいか)及び並倉(なみくら)(竝倉)などは,新進の詩人としての地位を確立した抒情小曲集『思ひ出』から,田中善徳(たなかぜんとく)の撮影による写真に詩歌を付した遺稿『水の構圖(こうず)』に至るまで,白秋が数多の作品に描き,それらを生み出す原点となった優秀な風致景観を構成している。白秋は,『思ひ出』において水郷柳河を「静かな廃市(はいし)」と呼び,「さながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)」と表現した。白秋の詩作活動の背景には,今や静かに廃れ行こうとしつつも,なお光彩陸離(こうさいりくり)たる郷里柳河の水景への強い懐旧の念があった。
水郷柳河の掘割の水面とそれらに臨む神社境内の樹叢などは,白秋の詩作の源泉となった優秀な水景の風致を誇ることから,その観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))立花家文書柳川古文書館 福岡県柳川市隅町71-2
立花氏は大友氏第六代貞宗【さだむね】の子貞載【さだとし】(?~一三三六)が筑前国粕屋郡の立花城主となり立花氏を称したのに始まり、立花鑑載滅亡後は同じく大友氏の一族戸次鑑連【べっきあきつら】(道雪)の養子統虎【むねとら】(宗茂【むねしげ】)が同城に拠り立花氏を称した。安土桃山時代、宗茂は柳河城主となり、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため改易となった。その後、元和六年(一六二〇)田中吉政改易の跡をうけて柳河に再入封し、筑後五郡一〇万九六〇〇石余を領した。柳河藩は三池藩一万石を分立したりするが、初期を除き改易転封はなく、立花氏は柳河藩主として歴代相次ぎ、宗茂以降一一代を経て、一二代鑑寛のときに明治維新・廃藩置県を迎えた。
立花家文書として知られるものは、現在大きく立花家所蔵になる家文書と福岡県(県立伝習館高等学校)所蔵になる柳河藩政資料とに分かれるが、本来は柳河藩立花家に一括して伝わったものである。指定にあたっては、その歴史性を勘案して、併せて一括とした。
家文書である立花家文書は、立花家の歴史を反映して、(一)刀狩令をはじめとする豊臣秀吉から立花宗茂宛の文書、(二)柳河藩政の確立期における検地の実施、(三)藩制創出における家臣団の構成、(四)藩財政や農政などに関する文書などが伝えられている。その中心は御宝蔵に収蔵されていた文書群で、御宝蔵御書類目録によると、仁、義、礼、智、信、第一~十三号と歴代藩主ごとに分類されている。立花家の重書とされる文書で文書箱別に収納されていた。文書箱として「御感状箱」と「黒塗朱御定紋箱」とがある。御感状箱には「仁」として戸次道雪関係文書、「義」として立花宗茂関係文書が収納されていた。黒塗朱御定紋箱の蓋上には「禮智及三号、四号、五号、六号、七号、八号、十一号、十三号入」という貼紙があり、「禮」には立花宗茂関係、「智」には立花鑑虎以降の藩主関係、三号(領知)から十一号(蹴鞠)までは内容によって分類され、十三号は「雑」となっている。欠番のうち、一・二号は別置されており、一号は歴代藩主の宣旨、口宣案、位記、二号は将軍家判物と領知目録であることが判明し、九・十・十二号は長棹からみつかり、さらに「信」として鑑寿関係の存在が知られた。近世文書に注目してみると、(一)立花氏の出自に関する戸次・大友系図や『寛永諸家系図伝』の家系図控などの系譜関係、(二)歴代藩主の宣旨、口宣案、位記などの朝廷関係、(三)将軍印判状や老中奉書などを含み、幕閣と柳河藩との政治関係をうかがう上での好史料である幕藩関係、(四)藩領領知高などの近世初期の重要な農政史料をはじめとする藩政関係、(五)近世前期の軍役帳、江戸城普請分担図や寛永十四年十二月の島原の乱における「嶋原御陣御備書」などの軍役・武芸関係、(六)元治元年(一八六四)十月、第一次長州征討などの幕末政局関係に大別される。
柳河藩政資料は、立花家の私設図書館である対山館において収蔵・公開中であった立花家旧蔵文書のうち閉館により、藩校の伝統を引き継ぐ現在の県立伝習館高等学校に移管・架蔵され、伝習館文庫として同校および伝習館高等学校同窓会によって守り伝えられてきた文書群で、昭和二十七年福岡県指定文化財になっている。本文書の全体的な特徴としては、藩政関係以下の累年にわたる諸日記・記録・書状類や地図・絵図に至るまで豊富であり、とりわけ近世中期から同末期までと、明治初期の日記・記録類がきわめて充実している。内容としては柳河藩主と主要家臣の事蹟、系譜に関するものが多い。(一)日記類は約五〇〇冊に及び、柳河、江戸における藩主の日々の動静を記す『用人日記』『江戸用人日記』が半数弱を占めている。一方、奥向きの日記として『江戸奥納戸日記』や御花畑奥祐筆の女性が記した『女中日記』などがある。その内容は大名家における日常生活の様子が垣間みえる。その他、日記・記録類の出納係である記録方の日勤簿などは具体的な仕事内容や勤務状況などをうかがえて興味深い。(二)約一七〇冊の記録方記録をみてみると、参勤交代の道程や諸経費などを詳細に記録した『参勤記録』、寛永十三年(一六三六)の江戸石垣普請や承応三年(一六五四)の内裏築地などの公儀手伝普請を記録した『御手伝記録』があり、初期藩政および藩財政の一端がうかがい知れる。各役職からの諸願や伺などを記録した『重職記録』『中老記録』『六組諸願記録』『徒組記録』などは家臣団の実態を示して注目される。…全文は添付ファイルを参照
国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))大友家文書柳川古文書館 福岡県柳川市隅町71-2
大友家文書は、鎌倉時代以来、豊後守護職等を世襲し、守護大名を経て、戦国大名へと発展した大友惣領家に伝来した文書で、保安三年(一一二二)十一月十九日清原某処分状案を上限として桃山時代に至る二百九十通を存する。
本文書は、大友氏相伝の所職所領に関するものが多く、室町期の足利氏の袖判下文、御判御教書、御内書、管領下知状など、室町幕府発給文書がまとまっているのが特徴である。
文書中、建久六年(一一九五)五月、中原親能を鎮西守護に任じた将軍家政所下文案や、文永、弘安の役に関わる文永十一年(一二七四)十一月一日関東御教書案などは、案文ではあるが鎌倉期の重要な史料としてあげられよう。元弘三年(一三三三)の四月二十九日足利高氏御内書は、絹布(一〇・五×八・四)に書かれ、篠村八幡宮において挙兵直後に発給されたもので、六月十日の足利高氏御内書、同十三日の足利高氏御内書等とともに尊氏の初期発給文書の遺例として珍しい。
南北朝、室町期の文書のうち、御判御教書は、守護職補任に関するものがまとまっており、御内書のなかには、将軍家および管領家の内紛の間にあって、大友氏が徐々にその権力を増大していった様子が窺えるものも含まれている。貞治三年(一三六四)の氏時、永徳三年(一三八三)の親世の所領所職注進状案は、南北朝時代の大友氏の所領の全貌や国衙領支配のあり方などを示している。また、大友義長をはじめとする、義鑑・義鎮・義統の条々事書は、大友氏の領国統治を考える上で注目される。
このほか、応永十九年(一四一二)六月九日摂津守護代長塩備前入道過所などは、当時、大友親世が春日丸という交易船を有したことを伝えており、永正四年(一五〇七)十月の笠懸日記など、小笠原流を中心とする室町幕府系の武家故実が守護大名へと受容されて行く過程を示す貴重な史料もあって興味深い。
以上のように、本文書は、豊後をはじめ筑後、筑前を中心とした中世大友氏の動向や九州の政治史を語る上に不可欠の史料として日本中世史研究上に重要である。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))鶴味噌並倉南棟福岡県柳川市三橋町江曲216
北棟と類似した外観。キングポストトラスの小屋組を載せ,小規模な切妻屋根を冠す中棟との間隙に煉瓦壁を築き,鋸歯飾りの胴蛇腹によって主棟との連続性を持つ。3棟の煉瓦妻面が掘割に面する並倉は,水郷柳川の歴史的景観形成に大きく寄与している。