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福岡県・豊前市

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))浦野醤油醸造元塀福岡県豊前市大字八屋1341-1

浦野醤油醸造元塀

主屋正面の北角から通りに沿って北に延びる桟瓦葺の塀で、通りと前庭を区切る。延長四・八メートルで、一間毎に柱を立て南から第二間に両開き板戸の門を構える。ほかは漆喰塗真壁として欄間を開け、腰はモルタル塗。主屋と一連で旧街道宿場町の面影を伝える。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))浦野醤油醸造元主屋福岡県豊前市大字八屋1341-1

浦野醤油醸造元主屋

中津街道八屋宿の中心部に所在する二階建入母屋造妻入桟瓦葺の商家。二階は観音開き扉や隅石積の漆喰塗で意匠を凝らし、一階は雨戸を備えた開放的な間口としてミセを構え、下手は通り土間、上手は前庭に面した座敷とする。街道宿の面影を伝える豪壮な町家。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))教圓寺鐘楼福岡県豊前市大字宇島215

教圓寺鐘楼

周防灘に面する宇島に位置し、旧中津街道沿いの境内南西隅に建つ。正面三間、側面二間、三階建袴腰付、宝形造桟瓦葺。二層の組物は出組で二軒繁垂木、四周に連子窓あるいは火頭窓を入れ、縁を出三斗で支え、内部に梵鐘を吊る。類稀な三層の鐘楼。

国指定文化財(重要無形民俗文化財)感応楽福岡県豊前市大字四郎丸

感応楽

 感応楽は、福岡県豊前市大字四郎丸(しろうまる)に鎮座する大富神社(おおとみじんじゃ)の神幸祭(じんこうさい)(春季大祭)において、隔年で奉納される楽打(がくうち)(太鼓踊)である。豊作祈願、雨乞い等を目的とし、四月三十日には神輿巡幸に伴い、大富神社及び同神社の住吉お旅所(たびしょ)で踊られるほか、翌五月一日は、四郎丸地区内の神社一〇か所を一日がかりで巡り、最後に大富神社に戻って踊る。
 我が国には、踊り手が胸または腰に付けた太鼓を桴(ばち)で打ちながら踊る、太鼓踊が全国的に存在するが、これらは太鼓などの囃子(はやし)とともに、趣向を凝らした扮装や飾りにも特徴がみられ、風流芸能のなかで重要な位置を占めている。旧豊前国に相当する現在の福岡県北九州市から大分県の宇佐(うさ)市、さらに国東半島にかけては、楽打、あるいは楽(がく)と呼ばれる太鼓踊が広域にわたって伝承されており、本件はそれらのなかで豊前市に伝承される楽打の代表的なものである。
 豊前市は福岡県の東部、周防灘(すおうなだ)に面する位置にあり、南は大分県境に程近い地域である。その中ほどに位置する四郎丸地区は、東側の「前の谷(たに)」、西側の「迫(さこ)の谷(後の谷とも)」の二地域から成っており、さらに「前の谷」は荻田(おぎた)、高野(たかの)、中組(なかぐみ)、広山(ひろやま)、「迫の谷」は杉ヶ谷(すぎたに)、迫(さこ)、西船入(にしせんにゅう)、東船入(ひがしせんにゅう)の各四地区から構成されている。大富神社は前の谷に位置する元県社で、感応楽は四郎丸地区の氏子である青壮年の男性によって担われているが、芸能を構成する楽人たちは「前の谷」「迫の谷」から半数ずつ選ばれ、協力することとなっている。感応楽の起源は、文武天皇元年(六九七)創始の説や、天正十五年(一五八七)執行以後中断し、江戸時代の延宝五年(一六七七)に再興したという説もあって詳細は不明であるが、文化十一年(一八一四)六月、藩命によって行われた大富神社での雨乞い神事のなかで「四郎丸楽」を奏したという社家の記録(「清原家文書」)が残り、現在の感応楽にあたると考えられる。なお感応楽の名称は、楽を打つことによって天地と感応し、雨乞いなどの願いを伝えるためとされ、天地感応楽、また豊前国を代表する楽として国楽とも呼ばれる。
 本件は、太鼓を打つ中楽(なかがく)(六)、団扇(うちわ)使い(二)、大団扇使い(二)、楽の由来を読む読み立て(二)、水取り(二)、少年の側楽(がわがく)(花楽とも)数名、そして囃子として笛(篠笛)(一二)、鉦(かね)(四)(二人一組で、一つの摺鉦(すりがね)を撞木(しゅもく)で打つ)から構成され、人数制限のない側楽以外の各役は、「前の谷」「迫の谷」から同人数ずつ選ばれる。隔年のうち実施の年には、準備として四月十日前後の日曜日に両谷合同で道具作りを行い、合同稽古である「打ち合わせ」も、四月二十七日に「迫の谷」、翌二十八日に「前の谷」で行うといったように、すべて二つの谷が両輪のように協力する体制となっている。
 楽の中心となるのは、胸に大きな桶胴太鼓(おけどうだいこ)を付けた、六名の中楽である。その扮装は、丈の短い藍染めの絣(かすり)の着付を着て白パッチを穿(は)き、黒脚絆(きゃはん)に黒足袋、草鞋(わらじ)といった出で立ちで、さらに腰には鷹の絵を染めた前垂れと、ヘラ皮(シナノキの樹皮繊維)でできた腰蓑(こしみの)を巻く。そして頭に白鉢巻を締めてシャグマを載せ、背には白幣(しろぬさ)を挿すといった装飾性の高い扮装である。太鼓は重く、踊りの所作も激しく体力を要するため、中楽は青年が担当する。踊りは、白の大幣(おおぬさ)を中心に立て、それを中楽が囲んで円陣を組む形態が基本で、この輪のなかに特殊な形状の菅編笠を被った団扇使いが入り、方形の団扇を手に複雑な所作をみせる。これらの外側に笛や鉦の囃子方、楽人に水を補給させる水取り、踊りの中ほどから参加する大団扇使いが取り囲む。また中楽とほぼ同様の姿をした側楽の子どもたちが、中楽の踊りを見真似して踊る。
 本件は、高下駄を履き、烏帽子(えぼし)を被った読み立て役の少年が中楽の円陣の中央に入り、楽の由来を読み上げる「祭文の読み立て」に始まる。それが終わると笛と鉦が奏され、太鼓を抱えるように頭を垂れてしゃがんでいた中楽が踊り始める。楽は「ダンメンドロ」「道楽(みちがく)」など全一九楽で構成され、一庭(一回)およそ三〇分の楽であるが、第三楽「念仏の切(きり)」では「ナムアーカミドー」と念仏が転訛(てんか)した語を発し、念仏踊の要素を窺わせるものがある。これら楽の由来の読み立てや、太鼓打ちを扇ぐ大団扇使いなどは豊前地域の多くの楽に見られるほか、雨乞い祈願の楽、念仏を含む楽も近隣に類例があり、それらとの関連が窺われる。中楽は片手の桴を高く掲げながら片足立ちで向きを変えたり、体を捩り、あるいは天を振り仰ぐような所作を繰り返しながら太鼓を打ったりと、躍動感のある所作をみせる。足どりも、時計回りを基本としつつ前進と後退を繰り返し、細かな動きをする。これら踊りの所作のみならず、囃子のリズムや旋律も演目が替わるごとに変化し、複雑な内容となっている。
 この感応楽は、かつて江戸時代には旧暦六月の夏越(なごし)の神事に奉納されていたのが、明治十年(一八七七)頃より神幸祭が四月三十日のお田植祭と結びついたのに伴い、現行の実施日となったと伝えられる。四月三十日は、まず大富神社境内において、神輿巡幸に先立つお発ちの楽を奏し、夕方に海岸近くの住吉お旅所に神輿が到着した後に、お着きの楽として再度行う。翌五月一日には朝七時半頃より、四郎丸地区内の神社一〇か所に奉納して廻り、夜になって大富神社で最後の楽を納め、二日がかりの奉納が終了する。
 なお本件の中楽には、「本楽(ほんがく)」「古楽(こがく)(代楽(かわりがく)とも)」という二組がある。中楽に新加入の青年は、続けて三度務めるしきたりがあり、これら青年による奉納を「本楽」と呼ぶ。本楽の経験が三度目の者は「左引(ひだりひ)き」という中楽の統率者を務め、さらに本楽を務め上げた者たちが「古楽」にまわる。古楽の人々は世話人とも呼ばれ、二日目の奉納のなかで所定の六か所(うち二か所は本楽との混合である)において中楽や団扇使いとして踊るほか、本楽の際には囃子方や水取り、大団扇使いを担当する。このように本件は、「前の谷」「迫の谷」の広域にわたる二地区から担い手が集うばかりでなく、実施にあたり経験者が後進の代わりを務める側面を含んでおり、この伝承のあり方は多地区への奉納を支え、数多い楽打のなかでも本件の特徴となっている。