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福岡県・太宰府市

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))蝦夷島奇観福岡県太宰府市石坂4-7-2

蝦夷島奇観

村上島(しま ) 之允(の じょう) (秦檍麿)が制作したアイヌ風俗画で、寛政12年(1800)に成立し、その後増補・改訂された。アイヌに対する深い理解と精緻な観察に基づき、伝説、儀礼、家屋、狩猟等を記録したもので、北海道、アイヌの歴史、文化研究上に貴重である。

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))朝鮮国告身〈万暦二十二年/〉
慶尚道観察使兼巡察使洪履祥伝令并書状〈万暦二十二年/〉
福岡県太宰府市石坂4-7-2

朝鮮国告身〈万暦二十二年/〉<BR/>慶尚道観察使兼巡察使洪履祥伝令并書状〈万暦二十二年/〉

本三通は、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)において朝鮮半島へ出兵した毛利家の家臣萱島木兵衛が、日本へ持ち帰ったものと考えられる。これらは、いずれも万暦二十二年(一五九四)八月から十月にかけて発給されている。この頃、朝鮮を交えずに日明間で和議折衝が行われていたが遅々として進まず、出兵した諸大名は朝鮮半島南岸に「倭城」を築いて在番していた。毛利家が在番していた城は釜山城、東末城などであった。戦線全体では在番が長引き、逐電して明軍や朝鮮軍に投降する将兵(「降倭」)が続出していた。朝鮮国告身は、朝鮮国王が萱島木兵衛を武官に任じたもので、「折衝将軍」は武官の正三品上、「龍壌衛」は朝鮮国の軍組織である五衛の一つであり、「上護軍」はその武官である。料紙は五枚以上を合わせて厚さ〇・五ミリメートルほどにもなる厚手の椿紙である。大きさは、現存する「倭人」充の他の告身に比べると四分の一程度と小さい。洪履祥書状には、密使の懐に忍ばせるために紙が小さいが、「朝廷」の恩義に変
わりは無いと記されており、通常より小型の料紙が使われていたことがわかる。本告身の発給に関しては『朝鮮王朝実録』に詳しい記事があり、木兵衛投降の可否について国王と側近の間で議が行われていたことが知られる。また、告身発給以前に木兵衛から血判誓紙が送られていたことがわかる。洪履祥伝令は、かねてより日本軍中に潜入して動静を探っていた東莱の儒学生宋昌世に充てたもので、木兵衛の投降に尽力したことを称えている。洪履祥書状は、告身から約二か月後の日付であり、なかなか態度を明らかにしない木兵衛に対して強く投降を勧めている。本三通は、朝鮮侵略における「降倭」をめぐる日朝間のやりとりを具体的に知ることのできる史料であり、日朝関係史研究上、極めて価値が高い。

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))絹本著色仏涅槃図(命尊筆/)福岡県太宰府市石坂4-7-2

絹本著色仏涅槃図(命尊筆/)

本図は、鎌倉時代末期の元亨3年(1323)に、奈良・興福寺に所属する絵所の命尊という絵仏師によって描かれたことが判る基準作品である。もとは奈良の法華寺に伝わった作品で、尼僧の発願により作られた。天地およそ3メートルの大きさの作品でありながら、細部描写は極めて精緻である。当初の描表装も含めて、保存状態は良好で,鎌倉時代の南都絵仏師による仏画を代表する作品として貴重である。

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))花鳥蒔絵螺鈿聖龕福岡県太宰府市石坂4丁目7−2

花鳥蒔絵螺鈿聖龕

 聖画を収納する聖龕で、桃山時代に我が国からヨーロッパへ向けて輸出された漆器の一つである。
 我が国では、十六世紀後期から十七世紀前期にかけて、ポルトガルを中心とするいわゆる南蛮交易において、箪笥や櫃などの調度品を主に、数多くの輸出用漆器が製作された。これらは、南蛮様式の輸出漆器で、いわゆる南蛮漆器と呼ばれる。これら南蛮漆器の特色は、螺鈿を多用することや幾何学文の縁取りによって装飾面を明確に区画すること、そしてその区画内部に花鳥文などを充填する表現を施すことなどが挙げられる。これらの額縁的な明確な区画、空間充填的な装飾は、インドやイスラムの装飾様式の影響を受けたものとされ、当時の国際交易の有様を物語っているといえよう。
 我が国における輸出漆器の製作は、十六世紀半ば以降日本を訪れたキリスト教宣教師らによって、布教活動に不可欠な道具として祭儀具が注文されたことに始まると考えられている。祭儀具とは、聖餐式に用いる聖餅を納める聖餅箱や聖書を置くための書見台、聖画を納めるための聖龕などである。その製作の担い手は、京における漆工職人らを中心とした集団であったと思われ、蒔絵とともに螺鈿が多用され、花鳥文を充填的に配置する意匠が施された。これら我が国で製作された祭儀具は、宣教師たちの帰国に際して持ち帰られたものもあると思われる。また、それと同時期、あるいはやや遅れて、交易品として本国における注文を受けて輸出されたものも少なくない。
 本件は、恐らく祭儀具として注文を受けて製作、輸出されたものと思われる。伝来は未詳ながら、近年里帰りしたもので、国内に現存する聖龕としては最大のものである。金銀蒔絵に螺鈿を併用し、幾何学文や花鳥文を全体に隈無く充填して、豪華荘重な意匠が施されている。横溢する螺鈿および蒔絵の意匠や全体の構成は、桃山時代でもやや下って、南蛮漆器の螺鈿意匠がほぼ完成した印象が漂う。また、背面に大きく描かれる花鳥図は、平蒔絵に絵梨地を交えたもので、高台寺蒔絵との関連性が強く感じられる。現存する聖龕において、背面にも装飾を施した例は、類例をみない。いずれにしても、総体に特に入念で優れた作行きを示す優品である。一方、外郭としての厨子に絵画を嵌めた龕を慳貪式に納める方式は、重要文化財・花樹鳥獣蒔絵螺鈿聖龕[東京都・独立行政法人国立文化財機構蔵(東京国立博物館保管)]や花鳥蒔絵螺鈿聖龕[東京都・公益財団法人サントリー芸術財団蔵(サントリー美術館保管)]など、現存する他例も多く、聖龕として当時一般的な構造であったと思われる。また、銅板に聖家族と聖ヨハネを描いた聖画は、精緻かつ丁寧に描かれており、正確な人物表現や総体に金彩が多用される点などは、やや特徴的で、少なくとも日本における写しや複製などにみられる構図の崩れなどはない。作者、製作地ともに不明ながら、この聖龕が輸出された先、ヨーロッパあるいはその周辺において、聖画を後から製作し、額縁に嵌装されたものと思われる。
 本件は、キリスト教の祭儀具である聖龕として、国内に現存する遺品の中では最大で、かつ精緻な漆工技術を駆使した豪華な装飾が施された優品である。また、螺鈿を多用し、かつ区画した内区に充填的な意匠を配置するなど、中世末から近世最初期における国際交易の様相を反映した遺品として貴重であり、南蛮様式の輸出漆器の一つの典型を示す代表作である。