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長崎県・大村市
国指定文化財(重要無形民俗文化財)大村の郡三踊(寿古踊・沖田踊・黒丸踊)長崎県大村市
長崎県大村市の旧郡【こおり】村の寿古、沖田、黒丸の各地区にそれぞれ伝わる風流踊【ふりゅうおどり】である。寿古踊、沖田踊、黒丸踊の三つの踊りには「同時に始まった吉例の踊」との伝承があり、地元で「郡三踊」と呼ばれている。現在は、大村市が毎年行う「おおむら秋まつり」などの催しに各踊りが輪番で出演するなどしている。
三つの踊りは、いずれも踊りの庭までの道行【みちゆき】と庭での踊りの2部構成をとっている。それぞれ踊りは異なるものの、踊り手や囃子方【はやしがた】の衣裳【いしょう】や、囃子方が1列に座して演奏する形など共通する要素が多く見られるものである。
寿古踊の庭での踊りは、子供たちによる「垣踊【かきおどり】」と「早踊【はやおどり】」である。踊り手は舞太鼓【まいだいこ】と垣踊【かきおどり】から成り、いずれも振袖【ふりそで】姿だが、舞太鼓だけは袴【はかま】を着け、月の輪と呼ぶ笠【かさ】を被【かぶ】る。中央に位置した舞太鼓を挟んで垣踊が2列になり、その後、輪となって踊る。沖田踊は、年長の子供たちによる長刀【なぎなた】と年少の子供たちによる小太刀が、長刀を外側、小太刀を内側とした二重の輪を作り、お互いに向き合って打ち合わせて踊る。黒丸踊には「入羽【いりは】」「小踊【こおどり】」「三味線踊【しゃみせんおどり】」がある。入羽では、81本の竹を放射状に広げ、その1本1本に和紙製の花飾りを付けた大きな花輪を背負った大花輪と、旗を背負った大旗が、背負い物を左右に揺らしながら胸前の太鼓を叩【たた】くなどして踊る。鉦【かね】叩きも左右に体を動かしながら鉦を叩く。また、小踊、三味線踊では、子供たちが陣形を変えつつ踊る。
本件は、祝事の芸能として神社祭礼等とは結びつかず、また3地区それぞれに伝承される踊りが一連のものとして位置づけられ、演じられてきた芸能である。近世の文献に記された踊り手の構成などを今に残し、地域的特色や芸能の変遷の過程を示して重要なものである。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)大村藩主大村家墓所大村市古町
大村藩主大村家墓所は、大村湾に流入する大上戸川(だいじょうごうがわ)左岸、江戸時代の玖島(くしま)城下町の北方の長崎街道沿いに位置する本経寺(ほんきょうじ)に所在する近世大名家の墓所である。
大村氏は、戦国時代後半に肥前国大村平野を拠点に勢力を拡大した豪族である。戦国時代末期の当主純忠(すみただ)は、大村湾一帯を手中に収める戦国大名として成長し、南蛮貿易を進め、天正遣欧少年使節に関わった日本最初のキリシタン大名である。大村領内ではキリスト教が広まり、純忠時代にほとんどの神社仏閣が破壊されるに至った。
その後、豊臣秀吉の天下統一、江戸幕府開設とともに、2万7千9百石を安堵されて初代大村藩主となった純忠の息子喜前(よしあき)は、幕府の禁教政策を忖度して、慶長10年(1605)にキリスト教宣教師と断交してキリスト教禁教をはじめ、日蓮宗を軸に仏教復興政策を取ることとした。これには熱心な日蓮宗信者で肥後の大名である加藤清正の勧めがあったとされ、大村家の菩提寺として、また領内中核寺院として万歳山本経寺が慶長13年(1608)に完成した。本経寺が建立された地は、天正2年(1574)の耶蘇蜂起により破壊された山伏の修験坊の跡地に「耶蘇大寺」なるキリスト教会が建てられていたところであるという(『郷村記』)。本経寺は火災により数度の建て直しがあるが、現在の本堂は天明7年(1787)、鐘楼は文政7年(1824)、山門が文政8年(1825)、三十番神社が文政9年(1826)の再建であって、江戸時代の建物が残り、近世大名家の菩提寺の様子を現代に伝えている。
大村家墓所は本堂の西南側の2,500m2の範囲に展開しており、初代藩主喜前(よしあき)から幕末の十一代純顕(すみあき)に至る歴代藩主の墓塔をはじめ、藩主の正室側室、子女等の墓塔が営まれ続け、大村藩家老を勤めた松浦家の墓も置かれている。初代・二代藩主の墓は墓域東北部に東南向きに建てられ、三代から六代藩主の墓は初代・二代に対面する形で設けられ、中央部に広場空間を有していたが、19世紀後半に至って墓所が狭隘となると、広場空間に九代以降の藩主の墓を設けるようになった。
墓所の特徴として、他の大名家墓所において藩主の墓塔の様式が統一されていることが多いのに比較して、笠塔婆・五輪塔・石霊屋等、多様な様式の墓塔が建っていることがあげられる。歴代藩主を見ると、初代・二代・六代・七代藩主は五輪塔、三代・四代藩主は笠塔婆、五代・八代から十一代藩主は石霊屋となっている。これらの石細工は精巧であり、特に石霊屋は屋根、柱、貫等に細かい細工を施し、かつ全国的にも類例が少なく石造美術上の価値も有している。また、巨大な墓塔が多いのも特徴である。初代・二代の五輪塔は高さ2mほどであったが、慶安3年(1650)に没した三代藩主純信、宝永3年(1706)に没した四代藩主純長の墓塔は、それぞれ高さ6mを超える巨大な笠塔婆様式のもので塔身に大きく戒名を刻む。三代以後の墓塔が巨大化する背景として、17世紀中頃の幕府のキリスト教禁教政策の強化の中、長崎街道の側に位置して人目に触れやすい墓所に巨大な墓塔を建てることにより、大村家がかつてキリシタン大名であった過去を払拭し、仏教信仰をより明確に示す意図があったものとも推測されている。
このように、大村藩主大村家墓所は、かつてキリシタン大名であった大村家が、江戸幕府の禁教政策の中で造営した墓所であって、他の大名家墓所では見られない、多様な様式の墓塔と巨大な規模の墓塔が良好に残っており、我が国近世の歴史を知る上で貴重であることから、史跡に指定してその保護を図ろうとするものである。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)大村のイチイガシ天然林大村市雄ヶ原町
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)旧円融寺庭園大村市玖島
S52-1-006[[旧円融寺庭園]きゆうえんゆうじていえん].txt: 承応元年(1652)藩主大村純長が創建し、明治初年廃絶した天台宗円融寺の旧地にある。寺域南限の山畔中央の高所に巨石を据えて三尊石を組み、これを中心として斜面全般に400余個の石を立てまたは臥せ、地形の起状に従って作り出した枯滝・枯流等によってこれらの石組の配置を抑揚豊かなものに構成している。また左手に7段から成る枯滝を作りその水落石には白色の石炭岩を用いるなど、全体としてその意匠は華麗でかつ創意にあふれ江戸時代初期作庭の特色をみることができる。
長く荒廃しツツジ等の徒長した樹叢に埋もれていたが、昭和44年現況に復旧されたものである。