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長崎県・南島原市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)日野江城跡南島原市
S50-12-052[[日野江]ひのえ]城跡.txt: 近世、九州の有力大名である有馬氏が、日向県に移る以前に本城としていた城である。有馬氏は、建保年間(1213〜1218)頃、肥前国有馬荘の地頭に補任され、その後戦国大名として頭角を露わし、キリシタン大名として著名な晴信の頃には肥前の大半を領有するまでに至っているが、当時の居城である日野江城がいつ頃築かれたものかは必ずしも明らかではない。
現存する城の形態は戦国時代の山城であり、標高81メートルの通称本丸を中心に、多くの[[曲輪]くるわ]が階段状に配されている。大手は東側と考えられており、この付近には石垣が良く遺存している。その他の個所では、石垣はほとんど見られないが、これは、有馬氏の後に入封した松倉重政が、のちに島原城を築く際、日野江城の石垣を搬出したためといわれている。そしてこの時に、本城は廃され、今日に至っているが、著名な有馬氏の本城としての歴史的意義は大きい。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)原山支石墓群南島原市
S47-5-108原山支石墓群.txt: 島原半島西南部、雲仙岳から連なる高原地帯にこの遺跡はある。繩文時代終末期の共同墓地で、昭和30年代に一部が発掘調査されている。
支石墓は、数個の支石の上に安山岩の蓋石をのせ、その下に箱式棺または土壙を設けたもので、箱式棺は長さ1メートル前後、幅50センチのものが普通である。支石墓の約半数では、蓋石の下に副葬品として土器を置いており、いずれも繩文時代晩期に属し、副葬品のなかには弥生式土器はまったくない。したがって、この支石墓は繩文文化の伝統のなかで生活した人々の墓制に朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれているものとして、繩文時代から弥生時代への転換期の動態を知るうえで重要な遺跡である。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)吉利支丹墓碑南島原市
島原半島の南岸、天草を南に臨む海浜の共同墓地にある。昭和4年9月埋葬の際、地下に発見され、いま出土地に接する地上に安置されている。なお、本墓地内には若干の吉利支丹墓碑がある。
全長約1.21メートル、幅約0.56メートル、高さ約0.39メートルの蒲鉾形を呈し、材質は俗に天草石といわれる天草産の砂岩である。前面頂部に少さい等辺十字を刻し、その下にローマ字をもつて『FIRISACYE■MONDIOG”XONE■83GOX IRAI1610■IVG16 QEICHO15』と彫られている。後面及び前面に接する背部上にそれぞれ花十字が刻されている。
吉利支丹墓碑が中世末近世初頭におけるキリスト教普及の状況を示す資料として重要なことは更めて説くまでもない。長崎県下においてその数の少なくないのは往時の歴史にあい応ずるものであるが、反面その出土地の詳でないもの移転したものの多いことも事実であり、その製作も精粗さまざまである。この中にあって本墓碑は出土の経緯の略々明かなこと、製作の優秀にして特徴のあること等、価値あるものと認められる。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)原城跡南島原市
島原半島ノ南部ニアリ明應年間有馬氏初メテ城ヲ此地ニ築キタリシガ元和二年松倉重政島原ニ治スルニ及ビ廢城トナリ城壁ノ石材ハ取除カレタリ寛永十四年十二月島原、天草ノ切支丹宗徒等益田時定ヲ將トシテ此ニ據レリ幕府ハ初メ征討使トシテ板倉重昌ヲ遣ハシシガ次デ松平信綱ヲ遣ハスニ及ビ重昌翌年正月急ニ城ヲ政メテ戰死シ信綱更ニ諸藩ノ兵ヲ率ヒテ之ヲ攻メ二月遂ニ落城セリ城阯ハ既ニ山林田畑ニ化セルモ猶本丸二ノ丸 三ノ丸天草丸出丸等ノ名ヲ存シ板倉重昌ノ碑佐分利氏ノ墓、骨カミ地藏及慶安元年建立ノ供養碑等アリテ舊態ヲ偲ブニ足レリ