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熊本県・八代市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)八代海干拓遺跡熊本県八代市

八代海干拓遺跡

八代海干拓遺跡は、八代(やつしろ)平野(へいや)に点在する江戸時代後期から明治、昭和期に築かれた潮受(しおうけ)堤防(ていぼう)と樋門(ひもん)からなる干拓遺跡である。江戸時代後期、熊本藩は生産力向上のため有明海から八代海にかけて沿岸の干拓を進めた。八代海の干拓は、城代(じょうだい)・松井氏と現地の有力者(鹿子木量平(かなこぎりょうへい)・謙之助(けんのすけ)父子)によって事業が進められた。文化(ぶんか)13年(1816)築造の高島(たかしま)新地(しんち)旧堤防(きゅうていぼう)跡(あと)は、石灰岩を野面(のづら)積(づみ)した堤防で、北端には樋門の跡を残す。文政(ぶんせい)2年(1819)に築かれた大鞘(おざや)樋門群は、水門部である樋管(ひかん)が3連である江中(ごうちゅう)樋(ひ)と二番樋、5連の樋管を持つ殻(から)樋(ひ)の樋門3基が現存する。樋管部分には切り出した砂岩(さがん)を用いる。石造干拓施設を営造(えいぞう)する伝統は近代にも継続され、明治33~35年(1900~02)には10連の樋管を持つ旧郡築(きゅうぐんちく)新地(しんち)甲号(こうごう)樋門(ひもん)(重要文化財)、コンクリート造が主流化した昭和初期に石造である郡築(ぐんちく)二番(にばん)町(ちょう)樋門(ひもん)(登録文化財)が築造された。これらの遺跡は、八代海の干拓事業の展開と石造(せきぞう)堤防(ていぼう)等の築造(ちくぞう)技術(ぎじゅつ)を物語るものであり、わが国の近世から近代に至る干拓技術の発達等を知る上で重要である。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))作田家住宅蔵熊本県八代市本町二丁目5-6

作田家住宅蔵

三階建切妻造桟瓦葺。一階は木造軸組の外周にレンガ積を現し、二階以上は木骨煉瓦造の外周をラスモルタルで仕上げて土蔵造風にみせる。内部は各階とも旧は一室だが、一階を飲食店、二階以上を倉庫等に区画。特異な構造持つ三階蔵の姿が通りからも目を引く。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))作田家住宅主屋熊本県八代市本町二丁目5-3他

作田家住宅主屋

八代市の中心部に位置。二階建で屋根を東は切妻造、西は入母屋造として桟瓦を葺く。西に下屋、正面に庇を付す。二階はたちが高くガラス戸を間口いっぱいに建て高欄を付す。一階は改造があるが、二階の一二畳大の座敷二室は旧態をよく残す。近代和風の好例。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)八代城跡群
 古麓城跡
 麦島城跡
 八代城跡
熊本県八代市

八代城跡群<BR/> 古麓城跡<BR/> 麦島城跡<BR/> 八代城跡

 八代城跡群は,球磨川(くまがわ)河口部の八代市街地と東方の丘陵部に所在する,中世から近世にかけて熊本県南部の八代地域の支配拠点となった三つの城跡と関連遺跡である。八代は薩摩街道と球磨川水運の結節点であり,徳渕の港を有し,肥後及び九州の水陸交通の要衝であった。
 古麓城(ふるふもとじょう)は,南北朝時代から戦国時代にかけて名和氏・相良氏により球磨川右岸の丘陵部に築城,整備された山城である。天正15年(1587)には九州征伐の豊臣秀吉が滞在した。麦島城(むぎしまじょう)は,古麓城に替わって小西行長が球磨川河口部の徳渕の港に隣接して築城した総石垣造りの城である。関ヶ原の戦い後は加藤清正の支城となったが,元和5年(1619)の地震で倒壊し,北側の松江に八代城(やつしろじょう)(松江城とも呼ばれる)が築かれた。その後,細川家が肥後国主となると藩主忠利(ただとし)の父・細川三斎(さんさい)(忠興(ただおき))が入城,正保3年(1646)以降は家老松井氏が城代となり,熊本城とともに肥後一国二城体制を支える城として機能した。また,加藤氏が麦島城を改修する際瓦を焼いた平山瓦窯跡,城代松井家の歴代墓所も残る。
 このように,八代城跡群は,歴代の政治権力による港湾・水運の掌握の様相を窺えるともに,一地域で中・近世の城郭構造の変遷を知ることができ,関連遺跡も残っており,一体として歴史を把握できる事例として貴重である。