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熊本県・阿蘇市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)豊後街道熊本県阿蘇市・阿蘇郡産山村

豊後街道

 豊後街道は、熊本藩の参勤交代道である。豊後鶴崎と肥後熊本城下を結ぶ道で、肥後では清正公道、鶴崎路、豊後では熊本街道、肥後街道とも呼ばれた。慶長6年(1601)、肥後の領主加藤清正は瀬戸内海への通路、基地を望み、天草郡の代わりに豊後三郡内に二万三千石を得、熊本城下と豊後鶴崎を結ぶ32里の街道の整備に着手した。この豊後街道は、加藤氏の後に肥後に入部した細川氏にも引き続き利用された。豊後街道は熊本城下より立田口に出て東行し、阿蘇外輪山の一角二重ノ峠に到る。ここまでが清正公道といわれることが多い。それより阿蘇火口原に下り、内牧、坂梨を経て滝室坂によって再び外輪山をこえ、波野、産山を経て豊肥国境に到り、久住・野津原を経て鶴崎港に達し、それより海路瀬戸内海をゆく。
 豊後街道は熊本藩の参勤交代道として主要な歴史的役割をはたしたのみならず、九州を横断する街道として多くの民衆にとっても重要な道として機能した。遺構が良好に残っている二重峠の石畳道をはじめとする街道5箇所(4.38キロメートル分)及び的石御茶屋について指定するものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)米塚及び草千里ヶ浜熊本県阿蘇市・阿蘇郡南阿蘇村

米塚及び草千里ヶ浜

神話又は近代の詩歌の源泉となった阿蘇山の優秀な風致景観。27万年前に始まる阿蘇山噴火史の特質を示す2つの火山としても重要。名勝の火山としては初の指定である。

国指定文化財(重要文化財)阿蘇神社 還御門熊本県阿蘇市一の宮町宮地

阿蘇神社 還御門

 阿蘇神社は,古くから肥後一の宮として崇敬され,境内正面に楼門と,その左右の神幸門と還御門を構え,その後方に一の神殿と二の神殿及び三の神殿が建って,左右対称の境内を構成している。
 社殿は,天保6年(1835)から嘉永(かえい)3年(1850)にかけての社殿再興事業で建てられ,大工棟梁は,水民元吉が務めた。一,二の神殿は入母屋造の五間社で,三の神殿は三間社流造,楼門は三間一戸二階二重門で,神幸門と還御門は四脚門形式である。いずれも,軸部や組物などを波頭紋や雲紋の華やかな彫刻で飾っている。
 阿蘇神社の社殿は,その構法や彫刻には,江戸時代末期の建築的特色がよく現れており,また,造営経緯や大工名も明らかであることから,高い価値が認められる。

国指定文化財(重要文化財)阿蘇神社 神幸門熊本県阿蘇市一の宮町宮地

阿蘇神社 神幸門

 阿蘇神社は,古くから肥後一の宮として崇敬され,境内正面に楼門と,その左右の神幸門と還御門を構え,その後方に一の神殿と二の神殿及び三の神殿が建って,左右対称の境内を構成している。
 社殿は,天保6年(1835)から嘉永(かえい)3年(1850)にかけての社殿再興事業で建てられ,大工棟梁は,水民元吉が務めた。一,二の神殿は入母屋造の五間社で,三の神殿は三間社流造,楼門は三間一戸二階二重門で,神幸門と還御門は四脚門形式である。いずれも,軸部や組物などを波頭紋や雲紋の華やかな彫刻で飾っている。
 阿蘇神社の社殿は,その構法や彫刻には,江戸時代末期の建築的特色がよく現れており,また,造営経緯や大工名も明らかであることから,高い価値が認められる。