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宮崎県・都城市

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))旧江夏岩吉家住宅主屋宮崎県都城市西町3747

旧江夏岩吉家住宅主屋

大淀川と薩摩街道脇往還に面する敷地に西面して建つ。地域産業の発展に寄与した味噌醤油業経営者の元住居。木造平屋建、入母屋造で庭に面して広縁を廻らす。小壁黒漆喰塗、洋室外壁を石積風モルタル塗洗出仕上とし、全体に良材を用いた上質な近代和風建築。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))旧持永家住宅門及び石塀宮崎県都城市庄内町12625-1

旧持永家住宅門及び石塀

敷地南面から東面にかけて築かれた石垣上に建つ。石塀は切石四段積で上段に丸窓を連続させ、笠石を載せる。南面東寄りを切欠いて階段と門を設け、門柱頂部を繰形付の笠石で飾る。重厚さと軽快さを併せもち、存在感のある屋敷背面の構えをつくりだしている。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))旧持永家住宅隠居棟宮崎県都城市庄内町12625-1

旧持永家住宅隠居棟

庄内町の中心部の高台に敷地を構え、北面して建つ。入母屋造平入で四周に下屋を廻し、正面に玄関や便所棟を突出する。良質の杉材を用い、東端に十畳の客間を置き、座敷飾も整然とした意匠をもつ。伝統的かつ上質なつくりで、屋敷構えの核をなしている。

国指定文化財(国宝・重要文化財(美術品))朝鮮国書宮崎県都城市早鈴町18-5

朝鮮国書

 弘治13年(1500)正月日付、朝鮮国王李㦕(燕山君)が琉球国王尚真に宛てた書契で、朝鮮国に漂着した琉球人漂流民を「対馬州人」に依頼し琉球国へ送還する際に発給されたものである。
 料紙は大型で厚い特徴を有する朝鮮製の楮紙打紙を用いる。封式は、朝鮮国書通有の「弦心封」と称されるもので、奥から袖に九折に折りたたみ、第一折目となる文書の袖部分を第三折目の裏面中央にて糊付けをして封とする。封部分に、宛名「奉書/琉球国王殿下」、差出「朝鮮国王李㦕謹封」と書し、諱の文字上に朱文方印「為政以徳」を捺す。本文は擡頭、平出を用いた漢文体で文字は小さくあらわされる。このように、本国書の様式、品質、形状は、わが国に現存する万暦18年(1590)から辛未年(文化8年、1811)にかけての朝鮮国書(豊臣秀吉、徳川将軍宛)9通(宮内庁書陵部、東京国立博物館、外務省外交史料館所蔵)のそれらとほぼ共通する。
 『燕山君日記』および『中宗実録』によれば、1497年8月に済州島に漂着した10名の琉球人は宮古諸島の多良間島の人で、漢城の東平館(倭館)に連行されたのち、朝鮮王朝から依頼をうけた対馬島の貞勝という人物により、生存していた4名が琉球国まで送還されたことが知られ、本国書はこの送還に際して発給されたものと認められる。1500年11月、日本船の琉球到来を契機に40年ぶりの正規の琉球国王使である梁広・梁椿が朝鮮に派遣されたことなど複数の史実から、本国書は漂流民とともに琉球国に届けられたものと考えられる。
 15世紀後半の朝鮮は通交相手を制限するために文引制度を導入していたが、世祖や成宗は積極的な漂流民送還政策をとったため、貿易機会の増加をもくろむ博多・対馬の商人らによる漂流民送還事例が多くみられるようになった。琉球国は第一尚氏から第二尚氏への王統交代期でもあり、1467年(琉球国中山王尚徳名義)から1494年(琉球国中山府主名義)にいたる9回の琉球国王使は、国王使の割符を所持していた博多商人らによる偽使であった。漂流民送還を対馬島の人物に依頼したこと、正規の琉球国王使の派遣が40年ぶりであったことの背景はこのようなものであった。
 本件は現存する朝鮮国書のなかで最古の文書として古文書学上に注目され、中世後期の東アジア対外関係史上における数少ない外交文書として貴重である。