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宮崎県・西都市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)日向国府跡西都市

日向国府跡

日向国府跡は宮崎県のほぼ中央部、一ツ瀬川が形成した河岸段丘上に位置する古代の官衙遺跡である。周辺には多数の遺跡が点在しており、日向国分寺跡、国分尼寺跡や特別史跡「西都原古墳群」も所在している。
国府の所在地については諸説があり、長らく不明であったが、昭和63年度から平成12年度にかけて、宮崎県教育委員会が国府、郡衙、古寺跡等遺跡の分布調査と確認のための発掘調査を実施した。平成10年度に、周辺では最も多量の瓦が散布していることから国府の有力な推定地の一つであった寺崎遺跡において実施した発掘調査では、桁行2間分ではあるが、南北廂付東西棟建物を確認した。この建物は桁行、梁行ともに柱間寸法が2.85m(9.5尺)で、掘立柱建物から礎石建物へと建替えがあり、規模的にも国庁正殿の一部と推定される。また、その他の掘立柱建物等も確認し、多数の瓦も出土していることから、この場所が日向国府跡である可能性が高くなった。その後の調査で、東脇殿と推定される梁行2間の南北棟建物を桁行8間分確認したことや、北、西、南面の築地等も検出し、部分的な調査ではあるが遺構の分布状況がある程度明らかになった。
これら主要部分の遺構については、Ⅰ期からⅣ期の変遷がある。Ⅰ期には梁行2間、桁行が10間と7間以上の東西に並ぶ2棟の掘立柱東西棟建物や溝がある。年代は7世紀末から8世紀後半で、この時期の土器に「主帳」と墨書したものがあり、郡衙的な機能も想定される。Ⅱ期は8世紀末から9世紀初頭で、2条の掘立柱列が並ぶ回廊状の遺構と溝を確認している。Ⅲ期は国府が本格的に整備された時期で、Ⅲa期とⅢb期に分けられる。Ⅲa期は9世紀初めから中頃で、正殿及び脇殿は掘立柱建物であり、周囲は築地で区画する。正殿は全体の配置関係から、桁行7間もしくは9間の規模になると推定される。Ⅲb期は9世紀後半から10世紀前半で、正殿を四面廂付の礎石建物、脇殿も掘立柱建物から礎石建物へと建替えられ、築地も改修する。正殿及び脇殿の周囲には瓦の分布が濃密で、これらの建物は瓦葺であったと推定される。築地に囲まれた範囲は、南北約96m、東西は不確定であるが、約120mと想定される。Ⅳ期は10世紀中頃から後半で、南側柱に掘立柱塀が取り付く梁行3間、桁行5間の北廂付掘立柱建物と、梁行2間、桁行2間以上の礎石建物、及び溝がある。
出土遺物には、多量の瓦や土器、畿内系の土師器、円面硯、墨書土器などがあり、官衙的様相を示す。また、墨書土器には「国厨」とも読めるものがあり、この地が国府であることを示唆している。
日向国府跡は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好である。国府が本格的に整備されるのは9世紀になってからであり、国府造営の実態を良く示すとともに、古代日向国の政治情勢を考える上で重要である。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)都於郡城跡西都市大字荒武・大字鹿野田

都於郡城跡

都於郡城跡は,宮崎県中央部の西都市南部にあり,一ツ瀬川の支流三財川右岸の標高約100メートルの台地上に位置する。南北朝期から戦国期にかけて,日向中央部に一大勢力を有した伊東氏の本拠として栄えた城跡である。
 伊東氏は,伊豆国伊東荘を本貫地とするが,鎌倉時代に日向国に地頭職を与えられ,南北朝期に足利尊氏に仕えて日向国都於郡を与えられ,一族は日向国に下向,都於郡初代の祐持が本拠地に都於郡城を築いた。南北朝期には都於郡城に本拠を置き,児湯郡,那珂郡,宮崎郡,諸県郡に勢力を拡大し,室町期には佐土原城(佐土原町),宮崎城(宮崎市)を築いた。やがて伊東氏と,日向への進出を目指す薩摩の島津氏との対立が激化していった。16世紀後半,一時飫肥城の攻略に成功したが,元亀3年(1572)の木崎原の戦い(えびの市)で島津氏に大敗した伊東氏は,豊後の大友氏を頼って日向を脱出し,都於郡城主としての伊東氏の時代は終わり,都於郡城は島津氏の支配するところとなった。江戸時代の初頭,島津氏の佐土原藩が発足すると,本城たる佐土原城に対して外城としての役割を担ったが,元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になったと考えられる。
 都於郡城は,主体部である五城郭とその外側に連なる東ノ城,向ノ城,前ノ城,南ノ城等の出城からなっていた。主体部である五城郭は浮舟城とも呼ばれ,西を流れる三財川を自然の要害とし,周囲を急崖で守っており,本丸,二ノ丸,三ノ丸,西ノ城,奥ノ城の5箇の郭と,10数箇の腰郭からなっていた。本丸の周囲には高さ約1メートルの土塁が巡り,二ノ丸の東側から北側には高さ約2メートルの土塁が残っている。また郭と郭の間は,明瞭に残る空堀によって区切られている。
 昭和62年度の本丸跡の発掘調査によって多数の柱穴が検出されており,伊東氏在城の200数十年間に何度も建物の建て替えが行われたことをうかがわせる。出土遺物には,15〜16世紀の輸入陶磁器片が含まれている。
 都於郡城跡は,中世日向における伊東氏の本拠であり,日向の中世城館遺跡を代表する城跡である。よって史跡に指定し保護を図るものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)茶臼原古墳群西都市茶臼原穂北

茶臼原古墳群

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)上穂北のクス西都市大字南方

上穂北のクス

南方神社の境内で社殿の南西9メートルの所にある。高さ40メートル根廻り2.2メートル目通り9.95メートル、枝張り東西34.30メートル、南北32メートル主幹の下部は扇状にひろがり地上6メートルの所で二岐し南支幹はその下から南東方に横枝を出している。北支幹は11メートルの所で二岐して直止し、それより更に枝を出して枝葉繁茂し樹勢旺勢クスの巨樹の一つである。