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鹿児島県・志布志市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)志布志市夏井海岸の火砕流堆積物鹿児島県志布志市

志布志市夏井海岸の火砕流堆積物

南九州を象徴するシラス台地を構成するのが,2.2-2.5万年前に鹿児島湾北部の姶良カルデラから噴出した入戸火砕流である。入戸火砕流堆積物は,歴史的にも石材として利用されるなど南九州の歴史を辿る上で欠かせない堆積物として貴重である。

国指定文化財(登録記念物)鳥濱氏庭園志布志市

鳥濱氏庭園

江戸時代に島津藩主が領内の110ヶ所に設けた「麓」と呼ばれる武士団の集住地のうち、志布志麓は隣藩との境界に位置する海陸交通の要衝として、藩内でも有数の規模を誇った。鳥濱氏庭園は志布志麓に残る武家屋敷の庭園の一つで、「沢目記馬場」と呼ばれる谷筋の街路の分岐点に面して位置する。後代の道路拡幅に伴い、敷地の北面及び東面が失われたが、庭園はその意匠・構造をよく残し、住宅建築が建造された明治時代末期の遺風を現在に伝えている。
 庭園は住宅の玄関に続く8畳の座敷に面し、東庭から北庭へと連続する枯山水の様式を持つ。東庭は玄関前から北庭に向かって低い築山が連なり、全体に深い植込みで覆われている。主庭を成す北庭は、座敷前の平場に向かって西北方から傾斜する自然の地形を築山に見立てて造られており、その頂部に位置する小祠には屋敷神が祀られている。特に、座敷北側の平場には、露出した溶結凝灰岩の岩盤を掘り残して、島状の地形が造成されている。また、北庭の築山の周囲にはイヌマキ・クロマツ・ソテツ等が植えられているほか、東庭を含め全域にサツキが群生し、マンリョウ・イワヒバ・ツワブキ、シダ類等の地被類も随所に見られる。基盤岩石の露頭を活かした立体感のある意匠・構造を持ち、全体に豪快な印象を与える庭園である。
 以上のように、鳥濱氏庭園は、近世の志布志麓における武家屋敷の地割を基盤として、近代に作庭された独特の風趣を伝える住宅庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代及び同地域に属する庭園の類型の中でも、特に意匠又は構造面の特徴となる造形をよく遺していると考えられる。

国指定文化財(登録記念物)清水氏庭園志布志市

清水氏庭園

江戸時代に島津藩主が領内の110ヶ所に設けた「麓」と呼ばれる武士団の集住地のうち、志布志麓は隣藩との境界に位置する海陸交通の要衝として、藩内でも有数の規模を誇った。清水氏庭園は志布志麓に残る武家屋敷庭園の一つで、前川に沿って形成された「小渕馬場」と呼ばれる街路に面して位置する。
 敷地の東面は比高4〜5mの法面を成し、後の道路拡幅により法面の裾部が割石積に変更されている。街路と直交する小路に入り、さらに右手に折れると、石階を伴う登り勾配の導入路が門に至るまで延びている。門の内側は丸みを帯びた玉石積の石垣及び牆壁に囲まれた矩折れの通路となっており、その先に庭園と主屋が展開する。庭園は大正14年(1925)の建造とされる現在の主屋の南庭と東庭から成り、その境界部には石積みの牆壁を設けて区画している。ともに枯山水の様式で、街路に沿って盛り上げられた土塁状の地形の高まりを利用しつつ、敷地の内側に低い玉石積を回して土留めとし、帯状の築山を形成している。南庭では、築山とその端部を成す石積を背景として、平場に立石や伏石など複数の景石を据えており、東庭では、主屋に近いなだらかな築山の傾斜面上に手水鉢や小振りの景石を据えている。また、双方には、イヌマキ・サルスベリなどを中心に、ツツジ・マンリョウ・ナンテンなどが植えられているほか、特に東庭の中央にはクロマツが植えられている。ともに簡素な意匠の中に武家屋敷庭園の遺風を残し、住宅建築が建造された大正末年の住宅敷地の様相を現在に伝えている。
 以上のように、清水氏庭園は、近世の志布志麓における武家屋敷の地割を基盤として、近代に作庭された独特の風趣を伝える住宅庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代及び同地域に属する庭園の類型の中でも、特に意匠又は構造面の特徴となる造形をよく遺していると考えられる。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)志布志麓庭園
 天水氏庭園
 平山氏庭園
 福山氏庭園
志布志市

志布志麓庭園<BR/> 天水氏庭園<BR/> 平山氏庭園<BR/> 福山氏庭園

大隅半島の基部に位置する志布志は、太平洋・志布志湾へと注ぐ前川の河口付近に 形成された城下町である。中世に築造された志布志城は、内城・松尾城・高城・新城など複数の城郭から成る山城で、前川の北岸に迫るシラス台地に解析谷が形成した複数の支稜線の先端部に位置する。江戸時代になると、島津藩主は領内の約110ヶ所に「麓」と呼ばれる武士団の集住地を設けたが、そのうちの一つである「志布志麓」は、隣藩との境界に位置する海陸交通の要衝として藩内でも有数の規模を誇った。志布志麓の武家屋敷地は、中世志布志城の直下の谷筋に拓かれた「馬場」と呼ばれる街路沿いに帯状に展開している。近世の武家屋敷や寺院に起源し、さらに近代以降に手を加えられつつ継承された多くの住宅庭園が残されており、特に天水氏庭園・平山氏庭園・福山氏庭園は独特の地形を活かして造られた志布志麓庭園の特質を表す代表的な事例として傑出している。
 天水氏庭園は、中心の街路である「沢目記馬場」の奥部に当たり、街路が2方向に分岐する地点の高所に位置する。門を含む導入部の通路は、溶結凝灰岩から成る岩盤を矩折れに削り取って造られている。登り勾配に合わせて設けられた石段を登ると、明治中期の建造とされる主屋の玄関に至るまで、築山と石組を中心とする枯山水庭園が連続する。主庭は石段を登り切った右手の石製庭門の奥に展開し、主屋の座敷に東南面する枯山水の庭園である。岩盤の露頭に沿って造成した築山の中央付近には巨石を立てて枯滝を表現し、その背景には山岳を象ってツバキ・アラカシ・サザンカなどの常緑広葉樹が植えられている。変化に富んだ地形を活かしつつ、導入部から主屋及び庭園へと至る視覚的な連続性を調和よく構成するところに特質が見られる。
 平山氏庭園は、武家屋敷地の入り口に近く、「沢目記馬場」と今一つの街路である「西谷馬場」が分岐する地点の東に位置する。江戸時代初期にはこの地に石峯寺が存在したが、明治時代の廃仏毀釈により廃寺となった後に住宅へと転換したとされ、現在の庭園は住宅主屋の背面に展開する。東から迫る傾斜地とその基部に広がる大規模な岩盤を数段に削り取って造られた枯山水の庭園で、荒々しい様相と立体感に満ちた独特の意匠・構造を持つ。切り立った岩盤の中ほどは岩窟を形成し、その下段の岩盤斜面には月の姿を象った直径30cm、深さ約2cmの円形の穴が彫られているのをはじめ、南の築山の上方には多宝塔を象った石塔形燈籠が据えられているなど、寺院に淵 源するこの庭園の性質が窺える。
平山氏庭園の東の高所は、島津藩が志布志における物流・貿易の政庁として地頭仮屋 を置いた場所で、その東北に接して福山氏庭園が位置する。文政10年(1827)に建造された藩政時代の麓における最上級家臣の武家屋敷で、建物・庭園の配置構造がほぼ完全な形で残されている。導入路から虎口を経て正面の腕木門を入ると左手に石造の庭門があり、その内側が主屋に南面する庭園となっている。西からの傾斜地形 に連続して庭園の南端に築山を築き、その裾部及び鞍部の随所に景石を配置する。主屋と築山との間は広い平場となっており、その西端近くには、縁辺部に湾曲する意匠を施した溶結凝灰岩製の水盤が置かれている。庭園は、観賞の対象とされたのみならず、武芸の鍛錬場としても使われたもののようである。
 以上のように、志布志麓庭園のうち天水氏庭園・平山氏庭園・福山氏庭園は、近世の志布志麓における武家屋敷及び寺院の地割を基盤として、近代以降に手を加えられつつ継承された独特の風趣を伝える一群の住宅庭園で、特に意匠又は構造面において志布志麓庭園の特徴となる立地及び造形をよく遺していると考えられる。その芸術上・観賞上の価値は高く、名勝に指定して保護を確実にしようとするものである。