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沖縄県・中頭郡読谷村

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)木綿原遺跡中頭郡読谷村

木綿原遺跡

S52-12-044木綿原遺跡.txt: 本遺跡は、沖縄本島の中部、東シナ海にのぞむ海岸線に並行し、幅40メートル以上の砂丘上に所在する。延長150メートルを越える大規模なものと考えられる。
 遺跡は、沖縄貝塚時代中期を中心とし、前期包含層もみられる。遺跡南半部のやや内陸寄りには中期の貝塚が形成されており、中央部には同時期の墓域の存在が確認されている。この墓域内の小範囲の発掘で箱式石棺墓6基と特別な埋葬施設を伴わない人骨3体が発見されている。箱式石棺墓は、いずれもその上部を丸い石灰の岩塊や、板状のサンゴ石灰岩などで覆われていて、この集石群ををとりはずすと箱式石棺墓が姿を現わすのである。
 たとえば、第1号箱式石棺墓には、1体ずつの計3体が重なり埋葬されていた。そのうち、中層の1体のみが長く保存されており、伏臥伸展葬を示していた。足もとを2個のシャコガイ、顔面額にはサラバテイラの頂部があてられていた。上層人骨には甕形土器が副葬されており、ほかに巻貝製玉がある。また、石棺外に接して弥生式土器の甕と磨製石斧がある。
 これらの箱式石棺墓は、沖縄におけるはじめての発見であり、九州方面の弥生文化との交渉を具体的に示唆するものである。また、同時に招来されたと考えられる弥生式土器は、沖縄の先史文化の編年を弥生文化との関連についてより詳細に把握するための資料として重要である。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)座喜味城跡中頭郡読谷村

座喜味城跡

S52-12-057座喜味城跡.txt: 読谷村按司護佐丸によって築かれたと伝えられる座喜味城は、昭和47年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に史跡に指定したが、アメリカ軍の基地として使用されていた部分は指定し得なかったので、返還されたのを機に追加指定する。
 村道高志保・座喜美線建設のため現状変更を許可した西側の一部については指定解除する。
S47-5-167[[座喜味]ざきみ]城跡.txt: 沖縄本島西海岸の南部と中部の境、城原の山の上にあり、沖縄史上第一の築城家として名高い護佐丸が[[読谷山]よみたんざ]按司時代(1420年ごろ)の居城である。中山王[[尚巴志]しょうはし]の北山討伐に従った護佐丸が、一時今帰仁城で戦後処理にあたるが、やがてこの城を築き、読谷山一帯の広大な地域を確保し、北方の長浜港での貿易の利を掌握した。
 城郭は丘陵の先端部に位置し、本丸の南側二の丸には第1・第2のアーチ型の城門があり、石垣がめぐらされている。本丸は二の丸より高く、もと5段の石の階段があったが今はない。本丸は、第2次大戦中日本軍の砲兵陣地となり、戦後は米軍の通信基地となっているが、石垣は意外によく残り、沖縄の城壁中でも見事なものである。護佐丸は数年後に中城城に移ったので、この城はまもなく廃城となるが、築城の技術、護佐丸の歴史上の役割からも、この城は重要である。