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沖縄県・中頭郡中城村
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)中城城跡中頭郡北中城村・中城村
S47-5-168[[中城]なかぐすく]城跡.txt: 沖縄東海岸中部の中城湾に沿った高台上に、東北から西南に一直線に連郭式に築かれた城で、裏門からはいって、次第に高く、かつ広くなる三の丸・二の丸・本丸は、それぞれ堅牢優美な石塁で囲まれ、石の階段と門で各郭に通じている。とくに三の丸の城壁のように外側から目立つ石組は五角形の石を積みあげ、またアーチ門の回りは特に大きな切石を用い、石塁の角が丸味を帯びているのも特徴であるが、全体としてきわめて堂々たる外観を呈している。城の規模は必ずしも大きくはないが、東南側は自然の絶壁をなし、西北側は10メートルほど低い位置で外郭の石塁が走り、城の繩張りは日本中世の城に似たものがある。
築城は[[読谷山按司]よみたんざあじ]護佐丸といわれるが、護佐丸が座喜味城から中城城に居城を移したのは、尚泰久の妻となった自分の娘の住む首里に近いということのほかに、王権を[[勝連按司阿麻和利]かつれんあじあまわり]から守るためであった。勝連城は、この城から直線で8キロ、中城湾をはさんで東北方指呼の間にある堅固な城である。つまり、護佐丸と阿麻和利が、それぞれ相手の居所のよく見える位置に築城して対峙したわけである。しかし1458年、護佐丸は阿麻和利に滅ぼされ、中城城は王の直轄となり、第2尚氏の時代には王子の居城となった。
中城城は、近年琉球政府文化財保護委員会の手で一部修理が加えられたが、当初の遺構をほとんどそのまま残し、その技法や構造において沖縄城郭史上いっそうの完成度を見ることのできる城である。とくに、三の丸には門が1つ、二の丸には三の丸からはいる門と本丸に通じる門が2つ設けられ、殿舎の遺構、「いべ」というように、あらゆる条件を備えている。しかも、この城こそが、沖縄における第1尚氏による中央集権の確立に重要な役割を果たし、沖縄のいわば中世的な戦乱の最後の築城であったことはきわめて注目すべきであり、今後の保有と整備に努力すべきであろう。