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秋田県・鹿角市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)大湯環状列石鹿角市十和田
大湯町の西南約3粁に位し大字中通の丘陵台地に存する遺跡で、国道をへだてて二箇所に河原石の敷列による遺構が存する。東側にあるものは小字野中堂に西側にあるものは小字万座に屬する。いづれも列石帶がほぼ環状にめぐらされているもので、環帶として明かに認められるものは内外の二重であるが更に中心部にも列石がたどられる。野中堂遺構は外径約40米内外、万座遺構は外径約40数米内外を算する。
これ等の環状列石帶は中央の柱石を中心とする円形の石組又は菱形の石組等の複合によって構成されたものとみなされるが、なお列石帶を離れて内外環帶の中間に中心に柱石をおき周囲に放射状に河原石を敷設した整美した石組が配されている。遺構は火山灰層によって掩われており一帶に縄文土器・石器・土偶等を包含している。縄文式文化に属する遺構とみなされわが国におけるこの種の遺構として稀有のものである。
国指定文化財(重要無形民俗文化財)毛馬内の盆踊
秋田県鹿角市の毛馬内地区に伝承されている盆踊で、毎年八月二十一日から二十三日にかけて、地区内の本町通りを舞台に踊られている。
その起源は定かではないが、文化・文政年間(一八〇四-三〇年)に成立したと考えられる菅江真澄【すがえますみ】の『鄙廼一曲【ひなのひとふし】』に「盆踊大【だい】の坂【さか】ふし」の記事があることから、少なくとも江戸中期からは行われていたことが確認できる。その後、日中戦争から第二次世界大戦にかけて一時中断するが、戦後復活し、現在に至っている。
盆踊当日は、通りの中央数か所に篝火【かがりび】が焚かれ、揃いの半纏【はんてん】姿の地区内の若者たちによる「呼び太鼓」の音により、踊り子が篝火を囲んで内向きに細長い輪を作る。踊りは、祖先供養の意味をもつといわれる「大の坂踊り」と、より娯楽的な「甚句【じんく】踊り」の二つがあり、最初に太鼓と笛の囃子が付く「大の坂踊り」が、続いて歌のみによる「甚句踊り」が踊られるのが恒例である。なお、現在はこれらの後に、「鹿角じょんがら」と称してじょんがら節を余興として踊り、その日の盆踊を締めくくっている。
地元で仏の手向けのための踊りであると言い伝えられている「大の坂踊り」には、かつて歌もあったが、近代になってしだいに歌われなくなり、第二次世界大戦以後は太鼓と笛のみで踊るという現在の形式になった。直径約一メートル、長さ約二メートルに及ぶ大太鼓を先頭にして、子どもたちの踊りが続き、その後に次々と大人の踊り手が輪に加わり、静かに踊られる。「甚句踊り」は、七・七・七・五の詞章の鹿角甚句による踊りで、豊作を祈り祝うもの、郷土の風物を称えるものなど多数の詞章がある。歌い手はかつては踊りの輪のところどころに入って歌ったが、今では通りの中央二か所の定められた場所で歌うようになっている。二つの踊りは、いずれも篝火を囲んで踊る輪踊で、つねに輪の内側を向いてゆったりとした振りで踊るのが特徴である。
また踊り手の衣装には決まりがあり、男性は黒紋付の裾をはしょり、その下には水色の蹴出【けだ】しを付け、胴〆【どうじ】めを締めて飾りとしてしごきを結び、白足袋に雪駄あるいは下駄を履く。女性は紋付・江戸褄【づま】・訪問着などの裾をはしょり、その下に鴇色【ときいろ】の蹴出しをつけ、帯を太鼓結びにし、帯の下腰にしごきを結び、白足袋に草履を履く。なお男女とも、豆絞りの手拭いで額を隠すようにして頭を覆い、こめかみから前に折り返して口元を隠し顎の下で結ぶ、独特の頬被りをする。
以上のように毛馬内の盆踊は、祖先供養の盆踊に娯楽的要素の踊りが加わって今日の姿に至るまでの変遷の過程を示すものとして貴重であり、また地域的特色も顕著である。
国指定文化財(重要無形民俗文化財)大日堂舞楽
鹿角市八幡平【はちまんたい】の大日堂で正月二日に演じられる古風な舞楽、田楽などの芸能で、大日堂祭堂ともいう。大里、谷内、小豆沢、長嶺の四部落の能衆と呼ばれる人々によって、堂内の置舞台の上で、各部落に伝えられる多くの舞が舞われる。「神子舞」「神名手舞」「権現舞」「駒舞」「鳥舞」「工匠舞」「田楽舞」「五大尊舞」などが笛、太鼓などにつれて舞われる。「烏遍舞」では、舞人が頬面【ほうめん】という特殊なかぶり物を着け、また舞楽風の趣きのある「五大尊舞」は、その足の踏み方、刀の扱い方に特殊な技法があり、芸能史的にも重要である。
国指定文化財(登録有形文化財(建造物))旧関善酒店主屋秋田県鹿角市花輪字上花輪85
県道に西面して建つ。桁行14間,梁間11間の規模で,木造平屋一部2階建,切妻造,鉄板葺,平入とし,正面にこみせを設ける。北側を床上部とし,表側に店土間をとり,通り土間を通す。通り土間上部の架構は見事で,全体に技術,規模,意匠共に秀でる。