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秋田県・にかほ市

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)鳥海山山形県飽海郡遊佐町、秋田県由利本荘市森子・矢島町、にかほ市象潟町

鳥海山

鳥海山は山形県と秋田県との県境にまたがり裾野を日本海に広げる独立峰の火山(標高2,236m)で、古代から現代に至る信仰の山である。大物忌神は承和5年(838)を初見に神階の奉授がくり返される。大物忌神社の祭神は近世以降倉稲魂神(農業神)とされるが、古代の史料からは祭神は大物忌神であり、鳥海山を神体山とするもので、その神名は天変地異に対する畏れ慎みを意味する「物忌」に発すると考えられる。月山神社も同所に祀られ、神仏習合の進行のなかで、「出羽国一宮両所大菩薩」等の呼称を生んだ。鳥海山には山形県遊佐町吹浦、蕨岡、秋田県にかほ市小滝、院内、由利本庄市滝沢、矢島の各登拝口があり、秋田県由利地方と山形県庄内地方を中心に信仰された。江戸時代には登拝口の間で鳥海山の祭祀権をめぐる争いがあった。明治13年(1880)、鳥海山山頂の社殿を「本殿」、吹浦・蕨岡に鎮座するふたつの大物忌神社をその「口ノ宮」とし、三社をもって「国幣中社大物忌神社」とすることが決められた。
 古代国家の辺境にあって、古代には国家の守護神として、また古代末から中・近世を通じては出羽国の中心的信仰の山として崇敬され、特に近世以降は農業神として信仰された鳥海山の信仰の中心を担う大物忌神社は、古代から中・近世の宗教・信仰の実態を知るうえで重要である。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)鳥海山獅子ヶ鼻湿原植物群落及び新山溶岩流末端崖と湧水群にかほ市

鳥海山獅子ヶ鼻湿原植物群落及び新山溶岩流末端崖と湧水群

 鳥海火山は秋田・山形県境にまたがる日本海に面した活火山である。標高は2,237mで岩質は安山岩を主体とする。鳥海火山の噴火活動は,55万年前に遡る。今から約2600年前,鳥海火山北麓が大崩壊して東鳥海馬蹄形カルデラが形成され,象潟岩砕なだれが発生した。この岩砕なだれは,当時の日本海にまで流れ込み,現在天然記念物に指定されている「象潟」を形成した。
 この象潟岩砕なだれは,堆積後二次的に崩壊し泥流を発生した。この泥流堆積物上面が,後に獅子ヶ鼻湿原が成立する緩斜面である。その後,泥流堆積物上には,鳥海火山から何回かの溶岩流が流下した。これが新山溶岩流である。鳥海火山北麓の標高約550mの新山溶岩流の末端では,このカルデラを集水域として降水が浸透し,溶岩流下部の破砕された部分を通って,出壺(でつぼ)と呼ばれる湧水池から湧出溢流している。
 獅子ヶ鼻湿原植物群落は,出壺から出る豊富な湧水により涵養されて成立した湿地帯と,周囲に成立しているブナ林により構成されている。湿地帯は,大量の湧水のため高木林はあまり発達せず,低木林,ミズゴケ湿原,流水路等により構成されている。
 流水路・ミズゴケ湿原周辺には多量の蘚苔類がクッション状に密生し,独特の景観を形成している。特に,流水中には苔類の群落が密に形成され,未分解の植物体が厚く堆積している。これらの蘚苔類には,苔類のハンデルソロイゴケやヒラウロコゴケなどの遠隔地に飛び離れて生育している隔離分布種,苔類のイイデホラゴケモドキ,ミズホラゴケモドキ,ヤマトヤハズゴケや蘚類のシモフリゴケ,カギハイゴケのような通常高山にのみ分布している種等の希産種が大量に生育しており,学術的に非常に貴重な植物群落である。
 このような湿地帯は北アルプス立山や八ヶ岳等でも見られるものの,本地域ほど大規模なものは知られていない。本地域の湧水は,低温で変動が少ない水温(7.2〜7.3℃),強い酸性(pH4.5〜4.6),高いアルミニウムイオン濃度等の特異な性質を持つ。湧水地点の規模も非常に大きい。このような湧水の水質等が,特異な湿地帯の種を維持させているものと考えられている。
 湿地帯の周囲にはブナ林が発達し,通常あまり見られない,顕著な鋸歯葉を持つブナがかなりの割合で見られ,学術的にも価値が高い。なお,この地域はかつて炭焼きのために雪上伐採が繰り返され,2〜3mの高さで多数の萌芽枝を出し,分枝部分がこぶ状に盛り上がった奇観を呈している「あがりこ」と呼ばれる“奇形”ブナが多く見られる。
 この地域は東北地方の代表的な活火山である鳥海火山の溶岩流末端部分が典型的に発達している。この溶岩流末端下部からの大量の湧水に涵養され,日本では他に例を見ない規模と独特の植物相を持った湿地帯,それらの周囲にあるブナ林を含む指定予定地域は,学術上きわめて価値が高い。よって,天然記念物として指定し,一体として保護を図ろうとするものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)由利海岸波除石垣にかほ市芹田・飛

由利海岸波除石垣

 由利海岸波除石垣は、秋田県南部に位置する仁賀保町と金浦町の日本海沿岸にある。
 日本海北部の地域においては、海岸部の農地開発が近世を通じて諸藩の重要な農業政策であった。この地域における農地の開発と経営の安定には、海岸の波浪による塩害から農地を守ることが重要な課題であり、このため海岸沿いには長大な防風林や波除石垣がつくられた。芹田・飛の波除石垣も、日本海の激しい波浪から海岸を保全するとともに、波浪や強風による塩害から農地や農作物を守るために築かれたものである。
 18世紀末に大石久敬が著した『地方凡例録』には、「浪除石垣之事」と題した一文がある。これによれば、浪除石垣は波浪による海岸侵食が乱杭などでは防ぎきれないほど激しい地域に築かれた防波風堤あるいは防潮堤であり、表面に大振りな石を積み内部には小割石や砂利などを詰めて構築する方法が通例であった。
 芹田・飛の波除石垣の明確な築造年代は不明であるが、金浦町には「万石堤」の名が残り、本荘藩2万石の手で築かれたものと伝えられている。現在確認できる最も古い史料は天明2年(1782)のもので、飛の石垣に属する蟹坪・石崎・鷲森などの波除石垣の修理のために藩の助成米の支給を求めた文書である。飛の波除石垣については、これ以後、文化元年(1804)の象潟地震による被害箇所の修理にともなう文化7年の文書、嘉永2年(1849)、同6年の修理願の文書がある。芹田の波除石垣についても文化5年、嘉永6年、安政5年の修理願が残っており、近世後期においてこの両波除石垣を維持する努力が継続されたことが理解される。また、19世紀前半の作とみられる「由利南部海岸図」にも、これらの石垣が描かれている。
 現在、芹田の石垣は2区間延長約370メートルが残り、飛の石垣はたびたびの修理願にもあらわれる鷲森・石崎・蟹坪・くずれの4か所が残る。石垣はいずれも自然石を積み上げたもので、表面には径30センチメートルから50センチメートル前後の大振りな石を用い、内部には小割石や砂利を詰めて築かれており、これは『地方凡例録』に記す築造法と一致する。高さは約1.2メートルから3メートル前後の部分が多く、水抜きの水門も保存されている。
 これら由利海岸に残る波除石垣は、近世における海岸部の保全や農地開発の歴史を考えるうえでの類例の少ない貴重な遺跡である。よって史跡に指定し、その保存を図るものである。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)象潟にかほ市象潟町

象潟

鳥海山は標高2237m。秋田・山形の県境にあり,日本海からそそり立つ成層火山である。今からおよそ2600年前,噴火に伴う山頂付近の崩壊により発生した岩なだれは,当時の日本海に流れ込み,浅い海とそこに浮かぶいくつもの小島(流れ山)をつくった。やがてこの海は,海岸砂丘によって塞がれ,汽水湖(古象潟湖)が形成された。これが古象潟湖である.1689年(元禄2年)当地を訪れた芭蕉が目にしたのはこの景観である。その後1804年象潟付近で地震が起き,象潟付近は2mほど隆起した。このため古象潟湖は干上がり,現在のような流れ山の周辺に水田が拡がる光景が出現した。今でも春,高台から眺めると田には水が引かれ,芭蕉が目にした象潟がよみがえる。

秋田縣由利郡ノ日本海ニ臨メル西部一帶ノ地ハ曽テ鳥海火山ヨリ噴出シタル火山泥流ニヨリテ蔽ハレタルガ其泥流ノ南端ニ當レル象潟町ニ属スル南北五キロメートル東西一.五キロメートルノ地域ハ嘉祥年間土地陷落ノタメ海水ノ浸ス所トナリ泥流中ノ「流レ山」ハ大小數十ノ嶋嶼トナリテ松樹其ノ上ニ茂リ宛然松島ノ景ニ髣髴シ八十八島九十九潟トシテ其ノ名世ニ喧傳セラレタリ
然ルニ文化元年六月出羽大地震ニ際シテ其ノ地域再ビ隆起シテ陸地トナリ往古ノ潟ハ化シテ稻田トナリ風景一變シタレドモ古ノ嶋嶼ハ今尚稲田中ニ大小六十有五ノ松丘トナリテ点在シ地変以前ノ名残ヲ留ム
稲田下ノ泥土中ニハ今尚蚶貝(象潟ノ地名ハ蚶潟ヨリ轉訛シタルモノナリ)ヲ始トシテ數多ノ貝殻ヲ埋存シ其ノ曽テ淺海底タリシヲ證ス
火山及地震ニヨル土地ノ隆起及陷落ヲ示セル自然記録トシテ興味アリ且重要ナルモノナリ