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山形県・酒田市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)山居倉庫山形県酒田市
明治26年(1893),酒田米穀取引所(さかたべいこくとりひきじょ)の附属倉庫として建設され,庄内米を保管・取引した大規模な施設。米が自由取引されていた米券(べいけん)倉庫時代から食糧管理制度下の時代を経て,建築後120年以上も現役使用の倉庫が現存する。近現代の米穀流通の歴史を知る上で重要である。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)總光寺庭園酒田市
松山町は、日本海沿岸の酒田市街から東南東へ最上川沿いに約一二キロメートル、江戸時代庄内藩の本拠鶴岡市街から北北東へ約一七キロメートルの山稜西麓に位置する。
江戸時代、庄内藩主酒井家の松山支藩の城下町として栄えことが、今も町の中心の公園や学校敷地などにうかがうことができる。
曹洞宗禅宗寺院である洞瀧山總光寺は、町の東部山裾に正面を西に向けて境内を構えている。参道両脇には県指定天然記念物の「きのこ杉」が並ぶ。江戸時代を通じての歴代住職の手入れによりきのこ型の樹冠をもち、独得の景観を呈している。文化八年(一八一一)再建の山門を入ると正面に本堂(瑠璃光殿)および右手に本堂と曲折れに接する庫裏を見る。いずれも宝暦十一年(一七六一)の再建である。庭園は、本堂・庫裏の裏側に位置する。
總光寺は、至徳元年(一三八四)、陸奥国胆沢郡報恩山永徳寺の高僧月庵良圓禅師により峰の頂に薬師仏一体を祀り開山としたと寺史が伝えている。以後、戦乱等により被災・再建の歴史が続いてきたが、江戸時代には庄内松山支藩酒井家の加護を受け、安定した一山経営が続けられてきた。現在の寺観は、庭園を含めて宝暦六年(一七五六)の被災後の再建を基にしている。
庭園は、庫裏の書院の間からの座観を基本とした築山林泉庭である。書院の間からの真東を望めば、左手上方に最上段の滝石組が水を落としており、中央の築山脇を流れで過ぎて池に注いでいる。池中には、書院の間正面に平坦な中島を設けており、池水を南西隅の池尻から庫裏脇に落としている。最上段の滝石組は、高さ約一・五メートル、幅一メートル強の板石を用い、滝下で一段を経て流れはくの字に屈曲しながら小さく一段二段を落ち、そこから石で畳んだ流れとなって中間の小さな滝石組に続く。ここから池までは平坦に低く構えた二段の落としで池に注ぐ。書院の間から庭園に下りれば、池の平坦な護岸石から五つの臼石の澤飛を経て中島に渡れる。中島の北端と南端にはやや大振りの石を据えており亀島風のしつらえを思わせる。中島と池の東岸はごく接しており一石の橋で結ぶ。対岸に渡ってからは、斜め上方に疎らに飛石を打ち、左手に見える築山の奥のやや広がりをもつ草地へと続く。廻遊路でもある。飛石の右手には緩やかな築山が設けられており、七か所ばかりに景石を配している。廻遊路は草地を経て、滝石組からの流れの中間を石橋で続き、小振りの自然石灯篭と桜の老木の脇を通り、開山塔への小道に合する。
この庭園の特色の一つは、左手上方からの滝石組と流れ、中央の岩組による豪放な築山、右手の柔和な築山、護岸を低く押さえた池と中島の巧妙な組み合わせである。江戸時代後期に完成する日本庭園の典型を示すとともに、華美に流れずいかにも禅宗寺院の庭園としての風格を表していて見事である。
もう一つの特色は、庭園正面遠方、山頂の峰の薬師堂を庭景に取り込んでいることである。現在は庭園上部の樅、松の老大木の間に薬師堂を望むことができる。山林中の広葉樹の紅葉とともに一幅の絵として庭園美を引き立てている。
庭園の左手から小道が始まり、松の多い尾根筋を上がりきると開山塔がある。享保十七年(一七三二)建立の「總光開山月庵圓老和尚塔銘」とある高さ約二メートルの石塔である。開山塔から少し屋根を上がって後平坦な道を行くと中の薬師堂に至る。ここからは急坂の道が広葉樹林の間を巡り山頂の峰の薬師堂で終わる。庭園から比高差一五〇メートルばかりの行程である。
峰の薬師堂前に立つと、北方に鳥海山、南方に月山、西方眼下に最上川、庄内平野、日本海の素晴らしい風景を一気に眺望することができる。
この庭園は、庭園自体として意匠、依存度、管理の点で、江戸時代後期の伝統的日本庭園の典型として優れているばかりでなく、本堂・庫裏の建物、中および峰の薬師堂、背景の樹林が見事な調和を保ち、全体が名勝として十分な価値を有している。
よって、庭園および庭園と一体となって美観を呈している境内ならびに峰の薬師堂、中の薬師堂を取り込んだ寺有林を広く名勝として指定し、長く保存を図るものとする。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)旧鐙屋酒田市中町
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)堂の前遺跡酒田市法連寺
山形県の庄内平野を南北に二分して最上川が流れている。北側の平野部では、出羽丘陵から流出した日向川と荒瀬川が合流し、その合流点附近は、両川の旧氾濫原が形成する微高地が西に向かって張り出している。この微高地は山麓から西3キロほど張り出しており、この微高地上に大規模な古代の遺跡が集中してる。
まずその西端には史跡城輪柵跡が所在する。この遺跡は昭和6年に発見され、方約720メートルを柵木で囲む遺跡として著名であるが、最近の中心部の調査により整然たる礎石建物等の配置が判明し、平安時代の出羽国庁ではないかとする説も提出されるに至っている。この城輪柵跡の真東約3キロの丘陵端上には、八森遺跡と呼ばれている官衙風の配置をもつ礎石建物等からなる平安時代の遺跡がみられる。この両者のほぼ中間、城輪柵跡からは東約1キロの位置にこの堂の前遺跡がある。
この遺跡は、昭和30年、大量の建築材等が発見され著名となった。この材の内には柱材や長押、斗等のほか多数の土器等が含まれており、つづいて昭和48年以降の調査の結果、かつて発見されていた古建築材は、低地帯における建物基壇の基礎工事としての筏風地業であることが判明した。材木層の上に積土層とバラス層を配し、周辺を13メートル×13.5メートルの規模で掘立柱列がめぐっている。この建物の北から西をめぐって南へながれる溝がみられる。基壇建物の西には、4間×2間の南北棟建物2棟がほぼ同位置に営まれている。建物は柱間寸法がそれぞれ15尺、柱径も1尺8寸と非常に大規模であり、柱根自体も3本が遺存している。同位置の別の建物は柱間が14尺程で柱根2列が遺存している。基壇建物の北にも同じく柱間寸法15尺の建物の西妻とみられる柱穴が3個あり、この地域に巨大な掘立柱の建物群があったことをうかがわせる。これらの建物を囲むように北と東には溝及び埋込みの板〓(*2)の基部が認められ、これに平行する溝もみられる。建物間には溝の他各所に土壙が多く認められる。以上の遺溝のうち基壇建物とその周囲の溝などは平安時代末期以降に属するものとみられ、掘立柱建物は10世紀頃に属するものであることが出土品等より判明している。
この遺跡は、都城跡でも例の乏しい大規模な柱間寸法をとること、大きな柱径をもつこと、建物群とそれをとり囲むであろう板〓(*2)や溝の再三の構築、建築学的に珍しい筏地業、筏地業に含まれる古建築材の遺存、遺存材や基壇による建物の復元等、極めて顕著な所見を提出している。西隣にある城輪柵跡と併存関連する遺跡として重要なものである。おそらくこうした遺跡は城輪柵跡や八森遺跡と相互に関連する遺構であることは明らかであり、今後の調査の進展とともに古代出羽国を解明する上で重要な役割を果すと考えられるので、指定するものである。