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福島県・伊達郡国見町

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))松田家住宅表門及び板塀福島県伊達郡国見町大字貝田字町裏3

松田家住宅表門及び板塀

奥州街道に北面して建つ表門。切妻造間口一間の門で桟瓦葺、柱に渡した冠木上に梁を架け、束で母屋、棟木を受け、明快な造りとする。板塀は半間毎に柱を立て、軒は腕木で支持する。表門の東に板塀が長く続いて敷地の表構えを整え、街道の歴史的景観をつくる。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))松田家住宅土蔵福島県伊達郡国見町大字貝田字町裏3

松田家住宅土蔵

主屋の東に位置し、家財を収納する土蔵。二階建切妻造平入桟瓦葺の南北棟で、西面に戸口を設けて下屋を付す。外壁は中塗仕上で軒廻りは漆喰仕上、南面腰は海鼠壁とする。内部各階は一室の板敷で、二階の棚は建具を鉄板で被覆し、内部も防火を意識した土蔵。

国指定文化財(登録有形文化財(建造物))松田家住宅主屋福島県伊達郡国見町大字貝田字町裏3

松田家住宅主屋

奥州街道の貝田宿に所在する養蚕農家。平屋建一部二階で北を入母屋造、南を切妻造とし、棟に煙出を設ける。内部は南に土間、北に六室で天井高く張り、縁を二層とする。外壁は軒裏を漆喰塗込、雨戸や戸袋を鉄板張とし、厳重に防火に備え、独特な外観を呈する。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)阿津賀志山防塁伊達郡国見町

阿津賀志山防塁

 本遺跡は宮城県との県境に接し、信達盆地の北端に位置する標高289メートルの厚樫山の南麓から、そのまま約4キロメートル南下して阿武隈川に近い地点までの水田地帯に所在する。この一帯には、今日も「阿津加志山」「大木戸」「国見」のほか、「堤下」「中島」「遠矢崎」「段ノ越」「上二重堀」「下二重堀」「石田」「[[元木]もとぎ](本城・元柵)」などの地名が南北に連なっているが、現況は東北本線・国道4号線・東北縦貫自動車道などに分断され、更に耕作や用水路などによって地形が相当に改変されてはいるものの、その間に国見町史跡「阿津加志山二重空堀」(昭和45年指定)を始めとして、水田畦畔の各地、あるいは畑地・果樹園・墓地等の随所に断続的に土塁状の地形の高まりや段差を残し、特に「二重堀」地区には明らかに二重の堀跡と三重の土塁跡が現存していて、古くから『吾妻鏡』文治5年条記載の藤原泰衡が構築したという「阿津賀志山」と「国見宿」との中間の「口五丈堀」であろうと考えられてきた。
 昭和46年、東北縦貫自動車道の建設に伴う事前の発掘調査が福島県教育委員会によって行われ、その結果は厚樫山の南傾斜面中腹で、二重の堀を2メートル前後に掘って、その土を1メートル前後に積みあげた三重の土塁跡を検出し、そして西堀の西壁と東堀の東壁との掘り込み部の幅は15メートルを測ること、さらに東土塁には自然石で根固めをしていることも確認された。
 次いで昭和53年、この地区一帯における圃場整備事業の計画が提示されるに及び、その計画が特に南半部の地形を大幅に改変してしまうため、昭和54年、福島県教育委員会は緊急発掘調査を実施した。発掘箇所は主として圃場整備実施地区であるが、9地点のトレンチ調査の結果は、一部に一重堀の存在しか検出されなかった地点もあるが、他は二重堀が検出され、二重堀の幅はやはり15メートルを測り、堀の深さは1.5〜2.8メートルといずれも深く、断面形が「V」字形のいわゆる[[薬研堀]やげんぼり]であることも昭和46年の発掘箇所と同様であった。
 このような再度の発掘調査と地表観察とを総合すると、地下に検出された堀・土塁は地上に観察される堀・土塁と総てが一様の構造ではないにせよ、明らかに一連の防塁としての構築物であり、現在までに鎌倉時代という年代を判定する出土遺物は検出されていないが、地下の堀の層位及び遺跡周辺の地名・地形等から考えても、また二重堀の堀幅の15メートルが「口五丈堀」の「五丈」にほぼ一致することからも、この遺跡が藤原泰衡の防塁跡だとしてまず誤りがないであろう。
 『吾妻鏡』文治5年条の記載は、「阿津賀志山」周辺を源頼朝の奥州征伐の最大の激戦地として詳細に伝えており、この地における泰衡の敗退が奥州藤原氏の滅亡を招いたとしている。もちろん、「阿津賀志山」「城壁」は「口五丈堀」だけではなく、「阿津賀志山」に「要害」を「固」めていたと思われるが、今日まだ遺構としてそれを十分確認するまでに至っていない。しかし、この防塁跡が、鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上できわめて重要な遺跡であることに鑑み、とりあえず厚樫山頂上から圃場整備除外地を中心に可能な限り必要な範囲を段階的に指定し、その保存活用を図ろうとするものである。