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福島県・東白川棚倉町

国指定文化財(重要文化財)都々古別神社本殿福島県東白川郡棚倉町大字棚倉

都々古別神社本殿

都々古別神社は,陸奥一宮として崇敬されてきた古社である。
本殿は文禄3年(1594)に佐竹義宣が造営したとみられる。もとは棚倉城の地にあったが,寛永2年(1625)に現在地へ移された。
形式は本格的な三間社流造であるが,組物を出三斗とし,彫刻を用いないなど,簡素なつくりとする。反りのある垂木,庇に架けた水平に近い梁などが中世的な要素である。
都々古別神社本殿は,東北地方において数少ない桃山期の本殿建築として,高い価値を有している。細部や技法には中世的な要素が残っており,中世から近世への転換期における様式や技法を知る上で,貴重な存在である。

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)流廃寺跡福島県東白川郡棚倉町

流廃寺跡

 阿武隈(あぶくま)高地の南端の丘陵上に立地する9世紀後半創建,10世紀中頃に広範囲に及ぶ火災により廃絶した山林寺院跡(さんりんじいんあと)。平成4年から実施された発掘調査の結果,ほぼ一本の尾根筋に沿って並列する13箇所の人工的な平坦地と9棟の礎石建物等が極めて良好な状態で検出された。
 検出された建物には,伽藍の中心を構成すると考えられる大規模な建物と,小規模な建物があるが,いずれもそれぞれ独立した平坦地や緩斜面に建てられている。そして,これらの平坦地を結ぶ通路や階段が検出されたことにより,伽藍内の導線を復元することができる。
また踏査で発見された,刀身に梵字と炎状の文様を交互に配する金銀象嵌鉄剣(きんぎんぞうがんてっけん)は,不動明王像所持の剣か,僧や修験者が所持した剣と考えられ,明治時代に採集された銅製三鈷杵(さんこしょ)とともに,流廃寺が密教的な性格を有していたことを示す遺物として注目される。
 平安時代の山林寺院の伽藍のあり方や密教の伝播を知る上でも重要である。

国指定文化財(重要無形民俗文化財)都々古別神社の御田植

都々古別神社の御田植

 都々古別神社の御田植は、豊作を願って、年の初めに神楽などとともに、稲作の作業過程を、せりふのやりとりと簡単な所作で、模擬的に演じるものである。
 福島県棚倉町【たなぐらまち】は、福島県の南部に位置し、茨城県、栃木県との県境にあたる。三県の県境が接する八溝【やみぞ】山から流れ出た久慈川【くじかわ】は、棚倉町を東北に向かって流れ、その後、大きく南に向きを変え、八槻地区から隣町の塙町【はなわまち】などを経て茨城県に入り太平洋に達している。八槻【やつき】地区は、棚倉町の南部、久慈川沿いにあって、町への入口にあたる。その地区にある八槻都々古別神社の拝殿で、毎年旧暦一月六日に御田植が演じられている。
 拝殿は正面六間(約一〇・八メートル)、奥行き三間(約五・四メートル)で、公開当日になると、正面奥に御田植の道具をのせた机を据え、向かって左側に楽人と呼ばれる演じ手たちが座り、右手側に宮司や氏子総代などが座り、中央で御田植が演じられる。音楽は太鼓、締太鼓【しめだいこ】、桶胴【おけどう】太鼓、笛で行われる。まず神楽の松【まつ】舞、巫女【みこ】舞、幣【へい】舞が舞われ、次に、せき検分【けんぶん】、めばらい、田耕【うな】い触【ふ】れ、田耕い、くろばおとし、水取り、代【しろ】かき、畦【あぜ】ぬり、あしおとめ、お種【たね】祈祷、種蒔き、烏【からす】追い、田植触れ、田植、天狐の舞があり、天狐【てんこ】の舞の後に、楽人が全員で「中飯【ちゅうはん】」と言いながら参詣人に細長く切った餅をまいて終わる。
 御田植には、松舞の採物【とりもの】や田植の早苗として使う松の枝のほか、平たく丸めた餅を扇形に四つに切って、にわとこの枝をさして鍬【くわ】に見立てた餅鍬【もちぐわ】、中飯として配る細長く切った餅などが使われる。これらの餅は公開前日に搗いて、当日、それぞれの形に切って用意する。代かきに曳き出される牛は、四つ車が付いた箱にのせた牛の人形で、背中に御幣【ごへい】を立てて紅白の引き紐が付いている。演奏される太鼓とは別の太鼓が用意され、この太鼓の革の面を田に見立てて田植などを行う。お種祈祷では、三方【さんほう】の上に、籾【もみ】を入れた一升枡を置き、その上に大きな丸餅を三つ重ね、三本の幣束【へいそく】を立てたものが使われる。
 御田植の各演目は、宮司の呼びかけに応じて楽人が立ちあがって舞う。最初に、奥州の山々の雪も消え、ヒバリがさえずるようになったので御田植にとりかかることに致しますという趣旨を宮司が呼びかけると、楽人が「さようにごありますか」と答えて、神楽の三番が順番に舞われる。次のせき検分は、呼びかけに応じて二人の楽人が、餅鍬を担いで拝殿を回りながら「昨年はたいした大水もなく、そちもないように思われますが…」などと言いながら堰【せき】を確認する様子を演じる。めばらいは、餅鍬を使い「がり、がり、がり…」などと言いながら堀を手入れする様子を演じる。田耕いでは、中央に太鼓を持ち出し、太鼓の上面の革の表を田に見立てて、楽人に氏子などが加わって、それぞれ餅鍬を手にして、太鼓の周囲を回りながら太鼓を叩いて田を耕す様子を演じる。くろばおとしは、畦を整える様子で、餅鍬を手に「さっく、さっく、さっく…」と言いながら行われる。水取りでも「がぶ、がぶ、がぶ…」「ごぼ、ごぼ、ごぼ…」など、作業の音を口で言いながら行われる。代かきは、台車に乗った牛の人形が曳き出される。まず「べーこ、べーこ」と呼びかけながら牛を探し、牛を曳き出すと後方から太鼓を打って追い立てながら代かきの様子を演じる。畦ぬりは「がんぶり、べたり、どろり、べったり、べった、べった」などと言いながらの所作である。あしおとめの意味は不明だが、松の葉を拝殿にまいて足で踏む所作があって「こがねのやまぶき」「しろがねのにわとこ」「だいぶ、まんべんなく入ったようでござりやすので…」などと言うところから、肥料を田に踏み入れている様子とされる。種蒔きでは楽人が「わせ」「なかて」「おくて」「もち」と唱えながら、それぞれの種を蒔く所作を繰り返す。さらに参詣人が申し出た稲の品種名を唱えながら蒔く所作をしていく。烏追いは、中央に太鼓を置いて、楽人全員で太鼓を叩きながら「からーす、からーす」と言って烏を追い払う。田植は、太鼓を田に見立て、楽人に氏子なども加わって太鼓の周囲を回りながら、松の葉をちぎって太鼓の上に置いていく。天孤の舞は、白い狐の面を着け、肩に鍬を担いだ舞手が、四方を耕したりして舞うもので、この狐は稲荷の神と考えられている。最後に楽人が全員で「中飯、中飯」と言いながら、三方にのせた切餅を参詣人に向かって盛大に投げ配って御田植が終わる。