紙本著色フランシスコ・ザビエル像
概要
天文十八年(一五四九)鹿児島に来航し、初めて日本にキリスト教を伝えたスペイン人イエズス会士フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 一五〇六-五二年)の名は、その肖像画である本図とともに広く知られている。ザビエルは二年三か月の間、西日本各地のほか京都や堺にまで赴き精力的に布教した後、中国に渡り広東郊外の上川島【シャンチョワン】で没した。滞在期間は短かったが、キリスト教布教の基盤を築き、西欧に日本への宣教熱を呼び起こした。この後日本におけるキリスト教改宗者は急増し、やがて豊臣秀吉あるいは徳川幕府によるキリスト教弾圧の強化、さらには鎖国に至る大きな歴史変動の発端となったという点で、わが国の歴史上きわめて深刻な影響を及ぼした西洋人であるといえる。
聖人の肖像は、西洋で出版された著作物の銅版画挿絵類を手本としているとみられているが、燃える心臓をもつことなど他のザビエル像にはない図像的特徴をもっていることが注目される。
純然たる油絵ではなく、基本的には日本画材料によるとみられるが、絵の表面には照りがあり、顔料の接着には膠【にかわ】に油性の液を混ぜて用いていると推測される。ザビエルや天使の顔では、まず暗色を塗り、これに明色を重ねてモデリングするという西洋画的な描法をとっていることがX線撮影によって確認される。また、文字や金色を表した箇所に金泥や金箔を用いず、鉛白と黄土を混ぜた顔料で黄金色を出すという、西洋画独自の技法を採用しているとみられる。肖像のすぐ下に「S・P・FRACISCUSXAVERIVSSOCIETATISV」と記され、その下の黄土色地の区画には、万葉仮名で「瑳夫羅(落)怒青周呼山別論麼 瑳可羅綿都 漁夫環人」(サフラヌシスコ ザベロンも サカラメント漁夫環人)と書かれている。さらに、Iを十字架に図案化した「IHS」印と、「環人」のあとに捺された「耶省可」と読める印がある。以上の解釈については諸説あり、制作者の問題を含めていまだ定説をみない。制作期についても同様で、比較すべき基準作がないため特定しづらいが、本図が西洋画技法に則りながら、両手の表現等に形式化が認められること、純粋な油彩画ではないことなどは、本図の制作時期がイエズス会の活動の盛期を過ぎたころであることを思わせる。一方、禁教令が厳しさを増すなか、一六二〇年ころから、ザビエルへの崇敬がむしろ盛んになりつつあったことが宣教師の書簡から知られる。これらのことから、本図の制作期はザビエルの列聖が日本に報された一六二三年の前後ころといちおう想定されよう。
本図は大正九年(一九二〇)に大阪・茨木市の山間部旧清渓村千提寺の旧家、東藤次郎宅に伝来していた櫃の中からマリア十五玄義図やキリスト磔刑像等のキリシタン遺物とともに発見されたもので、この発見を契機として同地域からキリシタン遺物があい次いで発見されている。同地域はキリシタン大名として著名な高山右近の所領地であり、江戸時代初期においてもおそらく最も熱心なキリシタンが存在したとみられる地域であることは看過できない。
わが国の歴史上重要な人物であるザビエルを描いた肖像画として著名な本図は、江戸時代初期のキリスト教礼拝画としても貴重であり、近世初期における西洋画技法による遺品として絵画史上でも重要な作品である。