志太郡衙跡
しだぐんがあと
概要
S54-12-030[[志太郡衙跡]しだぐんがあと].txt: 本遺跡は、駿河湾の西岸、大井川の形成する三角州の北縁を限る丘陵地の一角にあり、丘陵によって東西と南側を囲まれた一つの谷地形の中に占地している。谷の規模は、谷口で幅約100メートル、奥行約150メートルの規模をもつが、谷口部分は微高地を形成し、奥部が低湿地となっている。
遺構はこの谷口の微高地上に集中しており、掘立柱建物30のほか、井戸・板塀・道路などがみとめられる。建物は東西あるいは南北に棟の方位をそろえ、一見して官衙風に整然とした配置をとっているが、これらは、柱穴の重複関係や柱穴からの出土土器により、およそ8世紀前半から9世紀前半にかけて3期にわたって造替がくりかえされたものとみとめられる。建物群の西半部には規模の大きい東西棟を中心として、井戸をもつ広場や脇殿様の南北棟が展開し、本遺跡の中枢部分を構成しているものと推定される。建物群東半部の東辺及び南辺は土塁状施設あるいは板塀によって囲まれるが、ここには8世紀後半以降、倉庫及び雑舎様の建物が密集して建ち並び、また東南隅には柵で小区画をもうけ廂付建物を配置している。南辺の板塀の外側に沿って幅4〜6メートルの道路がある。板塀の西端に開く門を経て建物群中枢部に通じたものと考えられ、礫がまばらに敷かれている。道路の南側は沼沢地ないし池となっており、道路南縁には護岸の杭が打ち込まれている。
本遺跡からは、[[土師器]はじき]・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器・[[曲物]まげもの]・漆器・木製農具・人形・斎串・木簡などの多量の遺物が出土している。とりわけ注目されるのは、「志太」「志[[大](ママ)]領」「主帳」「志太厨」「郡」などと記した200点をこえる墨書土器の存在であり、これらによって、本遺跡が古代における駿河国の志太郡衙にかかわる施設の跡であることは疑う余地がない。なお、本遺跡が郡衙の中でも政庁・館・厨などのいずれの機能を果たしたかについては、周辺遺跡の発掘調査を含めて、今後の研究にまたなければならない。
本遺跡は、現在知り得た範囲においても、郡衙関係遺跡としてもっとも性格が鮮明であり、かつすぐれた遺構と遺物をもち、古代の地方官衙の実態を知るうえではかりしれない意義を有するものである。