堅志田城跡
かたしだじょうあと
概要
堅志田城跡は、肥後国で活躍した阿蘇氏の城跡であり、熊本県中央部を流れる緑川中流左岸の最高236mを測る「城山」と呼ばれる山尾根筋に所在する。阿蘇大宮司職を世襲する阿蘇氏は矢部館を本拠にして肥後国阿蘇郡・益城郡一帯を支配していたが、その勢力圏の西南部に位置する堅志田城は、肥後国の中央部に近く、戦略上の重要な地点であった。16世紀の前半、阿蘇大宮司職を巡って生じた阿蘇氏の内紛のなか、阿蘇惟前が大永3年(1523)に堅志田城に拠って、阿蘇惟豊と対峙した。また、天正10年(1582)より薩摩の島津氏が肥後国に進攻すると、阿蘇領の最前線として、阿蘇氏・島津氏の攻防の舞台となり、天正13年閏8月、島津勢の一斉攻撃を受けて落城した様子は『上井覚兼日記』に詳しい。落城後は島津氏の番城となり、その後、廃城となった。発掘調査等の結果、西方から東北方の栫集落へ向かって円弧状に延びる延長約400mの主軸尾根と、主軸尾根の西部から南方の熊取集落へむかって延びる延長300mの派生尾根上に、11箇所の郭、15箇所の堀切や畝堀等を有する大規模な城跡であることが判明した。このように、堅志田城跡は中世肥後国を代表する大規模な城跡の一つであり、阿蘇氏の内部抗争、島津氏との攻防が繰り広げられた舞台として知られ、中世肥後の政治状況を知る上で重要である。