一升桝遺跡
いっしょうますいせき
概要
一升桝遺跡は、神奈川県の南東部に位置し、鎌倉市中央部の西側山稜部に所在する、方形の土塁で囲まれた、交通路を監視・防衛する13世紀後半から14世紀前半頃の城郭遺構である。極楽寺地区と大仏切通を結ぶ尾根道の標高約99mの頂部から約100m南側に下った、標高約86mの尾根の分岐点に立地する。一升桝遺跡の南東側約700m、極楽寺坂南側の山稜部には、稲村路、極楽寺坂関係の防衛施設跡と推定される五合桝遺跡が所在する。「一升桝」「五合桝」は地元の呼称である。
平成12年に神奈川県教育委員会、鎌倉市教育委員会が実施した山稜部の遺構分布調査、発掘調査によって、旧鎌倉を取り巻く山稜部の防衛的遺構群は、おおむね中世の所産であること、西側山稜部の遺構密度が高いことが明らかにされた。
一升桝遺跡の土塁は、高さ約1.5mから2.8m、幅約5mから8m、東側32.5m、西側35m、南側27.5m、北側18mで、南側に広がる台形状を呈している。南西隅部だけが幅約3.5m途切れており、出入り口部と推定される。 東側と西側には帯郭状の平場が取り付き、尾根道の遺構と推定される。北側には頂部と桝形北側平場とを区切る幅約6mの堀切が設けられている。
一升桝遺跡と周辺部で12箇所のトレンチ発掘調査を実施した。北側は掘り残しの削出し土塁、南側は泥岩塊の積み上げ土塁で、最低2回の追加積み上げが行われていた。土塁の内側では明確な遺構は検出されなかったが、13世紀後半の古瀬戸卸皿、かわらけ、常滑甕等の破片が出土した。北側堀切では13世紀後半のかわらけ、常滑壺の破片、14世紀代の中国産の青白磁梅瓶破片等が出土し、堀切遺構が桝形遺構と同時期存在であったことが判明した。五合桝遺跡は、13世紀中頃から14前半にかけて一升桝遺跡と対になって、鎌倉西側山稜部の防衛施設として機能していたと推定されるが、14世紀末期頃から石塔類を祀る葬送供養の場に転用された。
文永4年(1267)以降に北条氏の援助で極楽寺が整備され、極楽寺坂が開削されるまでは、極楽寺地区と大仏切通を結ぶ複数の交通路と、五合桝遺跡東下の山腹部を通り、稲村ヶ崎、腰越へ通じる稲村路は、ともに重要な京鎌倉往還であった。極楽寺地区には、承久元年(1219)北条泰時創建と伝える成就院、建長6年(1254)ころ時頼創建と伝える聖福寺跡、正元元年(1259)重時創建と伝える極楽寺が所在し、北条氏一族が同地区を支配していた。
一升桝遺跡は、極楽寺地区と大仏切通を結ぶ交通路を監視・防衛する、堀切を伴い、土塁で囲まれた方形桝形の城郭遺構で、遺構も良好に残されており、北条氏の交通路支配、寺院と交通路管理の関連性等、中世都市鎌倉の特徴を考える上で重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。