老洞・朝倉須恵器窯跡
おいぼら・あさくらすえきかまあと
概要
S54-6-039[[老洞]おいぼら]・[[朝倉]あさくら]須恵器窯跡.txt: 岐阜県[[各務原]かがみがはら]市の北半から岐阜市の東端にかけて広がる各務原山地の南麓には、130基をこえる奈良・平安時代の須恵器窯跡が分布しており、美濃須衛古窯跡群の名で知られている。老洞古窯跡群および朝倉古窯跡群は、この美濃須衛古窯跡群の西端、通称諏訪山の南北斜面にある奈良時代の窯跡群である。
南麓の朝倉古窯跡群は、昭和42年「美濃国」の刻印を持つ須恵器が発見され、注目されることになったものであり、現在4基以上の窯跡が保存柵で囲われて残されている。一方、北麓にある老洞古窯跡群は、昭和52年「美濃国」印をもつ須恵器の表面採取によって発見され、翌53年岐阜市教育委員会と名古屋大学による確認調査が行われた。調査の結果、3基の窯跡が確認され、3号窯・1号窯・2号窯の順で継続して操業されたこと、そのうち、奈良時代初頭の1号窯で「美濃国」の刻印・ヘラ書をもつ須恵器を生産していたことがわかった。全貌を検出した1号窯は、全長9.3メートル、焼成室の最大幅1.3メートルの規模をもつ、半地下式・無階の登り窯である。1号窯出土の刻印・ヘラ書須恵器は総数402点を数え、杯・長頸瓶・平瓶など当時の殆んどの器種を含んでいる。
日常用器である須恵器にとくに国名を記した理由については、時期が限定されること、また国名を記す例が美濃1国に限られることからも、種々の想定が可能であるが、まず第1に指摘されるのは美濃国衙との関係である。このことは、美濃国印をもつ須恵器の出土地が、旧美濃国と隣接する尾張国の北辺部に集中し、この地域外では、平城宮や斎宮に限られることからも明らかであり、これらが美濃国衙と密接な関係をもつ工房において生産された可能性は極めて高い。老洞・朝倉窯跡群は、奈良時代初頭の国衙関連工房の実態をうかがうことのできる遺跡として貴重なものである。