無生野の大念仏
むしょうののだいねんぶつ
概要
無生野の大念仏が伝承される秋山村は、山梨県のほぼ最東端にあたり、無生野地区は秋山村の西端にあって、村境の雛鶴【ひなつる】峠から流れ出し村の中央を東に向かう秋山川の最上流地域になる。
無生野の大念仏は、かつては、ともに旧暦の一月と八月のそれぞれ十六日前後に行われたというが、今は旧暦の一月十六日と新暦の八月十六日に行われている。例年、まず一月七日に無生野地区を二つに分けた上区、下区から一名ずつが選ばれ、両者は互いに相談して、どちらが一月あるいは八月を担当するかを決める。一月の担当者はトウヤク(当役)、八月の担当者はアイトウヤク(相当役)とよばれる。さらに上、下区は各三組に編成されていて各組からコヤク(小役)とよばれる一名ずつが選ばれ、これら小役の六名が当役、相当役とともに行事を進行する。大念仏は、かつては各年の当役、相当役の家で公開されていたが、平成二年三月に地区の公民館として「秋山村無生野集会所」が完成した後は、そこを会場にして行われている。
当日になると集会所の一部屋にドウジョウ(道場)とよばれる二間四方の区画を設けるが、これは中央と区画の四隅に枝葉のついた青竹を立てて縄で互いに固定し、その縄や竹に御幣などを飾ったもので、中央に皮の締めをクサビで強めた大きい締太鼓を据えている。また部屋の壁に、中央に阿弥陀如来など三本の掛軸を掛け、供物や祈祷に使う御幣を差したコシ(輿)とよばれるものなどを供えて祭壇とする。
大念仏の次第は「道場入り」「道場浄【きよ】め」「ほんぶったて」「かりぶったて」「一本太刀」「二本太刀」「ぶっぱらい」「念仏のふた」「送り出し」で、当日の夜七時から八時頃に始まり二時間ほど続けられる。
その概要としては、まず「道場入り」と「道場浄め」が、その場を浄めるものとして行われる。これは道場に向かって三人が並び中央の一人が経文を唱え、次に左右の二人が小石と塩を道場の内外にまくもので、唱えと動作のありかたが修験系行事の儀礼次第に、ほぼ一致するものとされる。次の「ほんぶったて」は道場の中央の大太鼓の両面にそれぞれ太鼓打ちがつき、二名の鉦打ちと、ひとしきり演奏した後に経文を唱え、さらに「かりぶったて」では、大太鼓の縁を叩きながら、やはり経文を唱える。「一本太刀」は、大太鼓と鉦を打つ者の周囲を、小さい締太鼓を持って後退りに進む者と、それを追うように太刀を振る者、さらに一本の青竹を回しながら進む者が道場内をめぐるもので、最初は、ゆるいテンポで始まり、途中からは早まって、太鼓・鉦の激しい連打と、それに応じた激しい所作となる。次の「二本太刀」では、締太鼓を持つ者と、左右の手のそれぞれに太刀を持つ者の二名が同様に道場内をめぐるもので、これらの所作は舞踊の初源的な様子をうかがわせている。
次の「ぶっぱらい」は病気平癒の祈祷とされるもので、道場に続く部屋に夜具を敷き、祈祷の依頼者を寝かせ、枕元に、三宝に藁を束ね御幣を差した「輿」を置く。道場で先程の「一本太刀」と同様の次第が始まり、一方夜具の枕元には役の一人が付いて祈祷文を唱えながら御幣で依頼者をさする。そのうちに道場から締太鼓、太刀、青竹の者が踊りながら出てきて、順番に布団の上を飛び越え、三度目には青竹の者が、竹で掛布団をはねのけ病気回復を象徴して終わる。
次に道場の中で太鼓打ちが中心になり、南無阿弥陀仏で始まる句を唱えて行事の区切りとする。これを「念仏のふた」とよぶ。この後に「送り出し」となり、役員が道場の飾りを片付け、御幣や四隅の竹などを、唱えごととともに集会所から出て『大念仏供養碑』の所に置きに行って一連の大念仏が終わる。
この大念仏の由来として、地域では鎌倉時代末期の大塔宮【おおとうのみや】護良親王と、その寵愛を受けた雛鶴姫、さらにその王子にちなむものと語られている。一般に大念仏は、大勢が集まって念仏を唱えるものや道具立てを整えた本格的な念仏踊をよぶが、これらの念仏踊は、古く平安初期の空也に始まり鎌倉時代の一遍によって非常に盛んになったものとされ、ひたすら念仏を唱え踊りながら自身の解脱を望むものや、慰霊の意味合いの強いものなど各地で多様に展開してきた。このなかで無生野の大念仏は「道場浄め」や祈祷の「ぶっぱらい」、また道場の飾り方などに修験の影響を強く受けていて地域的特色が強いものとされる。
以上のように無生野の大念仏は、地域の人々が太鼓と鉦を鳴らして経典などを唱え、締太鼓や太刀を持って、その周囲をめぐるもので、その所作には舞踊の初源的な姿をうかがうことができ、かつ地域的特色が強く、また次第のなかに病気平癒など祈祷の意味をもつものがあるなど、祭祀行事から芸能へと展開していく過程を示すものとして持に重要なものである。
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