平戸のジャンガラ
ひらどのじゃんがら
概要
長崎県平戸市内の九地区に伝承されている念仏踊で、毎年八月十四日から十八日にかけて、祖先供養・五穀豊穣祈願の芸能として各地区ごとに奉納されている。
その起源については定かではないが、志々伎【しじき】神社の神田領民が豊年祈願の踊りとして神社仏閣に奉納したのが始まりと伝えられ、近世初頭の平戸イギリス商館の記録や平戸藩の記録類から、少なくとも戦国時代以前から行われていたと考えられる。またジャンガラの語源については、平戸藩主であった松浦静山の『甲子夜話【かつしやわ】』三編巻ノ一六に、「コノ舞ノ名ヲジヤングワラ踊ト云事ヲ記ス、此ノ斯ク呼ブ事、何カナル故ソト尋ルニ、ジヤント云ハ、鉦ノ音、グワラト云ハ腰鼓ノ声ナリ、(中略)其声グワラグワラト聞コユ、因テ里俗、其聞声ヲ指テ斯ク云フ」とあるように、使用される鉦と太鼓の音から定着した名称であろうといわれている。
近世には、平戸藩の重要な年中行事の一つとして手厚い保護を受け、城下組・下組・大下組の三組が組織され、毎年旧暦七月十八日には平戸城内で藩主の上覧に供した後に、城下各所で奉納されたという。現在では、平戸・中野【なかの】・宝亀【ほうき】・紐差【ひもさし】・根獅子【ねしこ】・津吉【つよし】・中津良【なかつら】・大志々伎【おおしじき】・野子【のこ】の平戸市内九地区で、盆の祖先供養と雨乞いや五穀豊穣祈願の踊りとして、神社・仏閣への奉納をはじめ官公署前や会社の前など市内各所で踊られている。
芸能の構成は各地区ごとに若干の違いがあるが、集団の中心で踊る中踊【なかおどり】(一二名)、それを取り巻く太鼓(側打【そばうち】・廻【まわ】り打【うち】ともいう。一〇名前後)、および苗(五名前後)と鉦(二名)の囃子が基本で、他に幟【のぼり】持ちや総代がつく。それぞれの役割の年齢層は各地区により若干相違するが、中心となる中踊と側打ちは青少年により演じられるのは共通している。服装は浴衣に草履履きで、踊り子は紙花を飾った菅笠を被り、締太鼓【しめだいこ】を胸に吊るす。
その芸態は、入【い】り羽【は】の囃子で入場し、鉦の合図で中踊が太鼓を打ちながら激しく踊り、その周りで側打ちが太鼓を打ちながら囃すというもので、終わると下【さが】り羽【は】の囃子で退場する。これは近世期の記録類にみられる芸態とほぼ一致しており、近世以来の伝統をよく継承するものであるといえる。なお、踊りの歌として中踊と側打ちが繰り返す「ホーナゴ、ホーミデーテ」という歌詞は俗に「穂長う穂実出て」と五穀豊穣を祈るものと解釈されているが、専門的には念仏の著しく変化した語句と考えられる。
以上のように平戸のジャンガラは、近世以来の芸態をよく伝えるものとして芸能史上とくに貴重であり、また念仏踊の地域的特色を示すものとしても重要である。
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