与論の十五夜踊
よろんのじゅうごやおどり
概要
与論町字城【ぐすく】の地主【とこぬし】神社で旧暦の三、八、十月の各十五日に行われる豊年祭【ほうねんさい】に、島中の安穏、五穀豊穰【ほうじよう】、子孫繁栄等を願い奉納されるもので、大和と沖縄の芸能の両要素に当地独特の風を加えた民俗芸能である。
この十五夜踊は、最初に雨乞いの願いをこめて『アミタボウリ(雨賜ぼうり)』という踊りがあり、以下風流【ふりゆう】踊りと狂言を交互に演じる。風流踊りは、音楽は沖縄風で、踊りそのものは大和風とされ、踊り手は、踊りによっては頭から布で顔をおおい、鉢巻きの端を後に長く垂らした「シファ」というかぶりものをかぶる。扇を持つ踊りと素手の踊りがあり、行列し踊りながら場を回っていく。狂言は、台詞【せりふ】を中心に展開し、筋は大和の能狂言そのままのものや沖縄の組踊を組み直したものなどがある。演目によっては、竹の骨に紙を貼り重ね、目鼻口などを絵の具で描く仮面を用いるものがあり、なかには長さ四〇センチメートルほどの大きな仮面もある。
以上の芸能は、二組の人々が分担し、一番組は主として狂言を、二番組は風流踊りを伝えてきている。一番組の伝承は『三者【さんばすー】囃子』、『二十四孝【にじゆうしこう】』、『町奉行【まちぶぎよう】』など狂言十一番と、踊りの『船踊【ふなおどり】』、『六十節【ろくじゆうぶし】』であり、二番組は『一度【いちど】いうて』(扇踊)、『この庭【にわ】』(扇踊)、『今日のぷくらしや』(手踊)などの風流踊り十八番である。
これらは、それぞれ踊りを演じる旧暦三、八、十月の十三日を各行事始めとし、組の中心となる一番組、二番組の座元【ざもと】の家で、行事始めの十三日、シグミ(仕組)の祝とされる十四日、祭当日の十五日に祝詞【のりと】や盃事【さかづきごと】などを行い祭にそなえる。当日の踊りは、神社の下方の広場で奉納され、広場に一番組と二番組が控えるサークラとよぶ座をそれぞれに設け、一番組が広場入り口近くの座に集まったころ、二番組は座元の家から旗の先端を持つ者を先頭に列をつくり、太鼓を打ち鳴らしながら広場にくりこみ、広場の奥の二番組の座に向かい、その傍らに旗を立てる。両組が揃うと町の関係者とともに社前に上がり豊年祭の祭式が行われ、その後、両組が座に戻り、二番組では、座元が祝詞を唱えて太鼓に酒を注ぎ、後に各人が酒を頂いて踊りを始める。
踊りは、まず一、二番組合同の『アミタボウリ(雨賜ぼうり)』で、これは大旗を持つ者を先頭に、次に肩に太鼓をになう者とその太鼓を打つ者が続き、次に一番組の三味線などの演奏者、さらに「シファ」で顔を隠した二番組の踊り手が「アミタボウリ タボウリ…」以下を歌いながら、つぼめ扇を左右に振りつつ進むもので、雨乞い祈願の意味があるとされる。その後は二番組の風流踊り、一番組の狂言と交互に上演される。狂言は、最初が『三者囃子』で、次に『二十四孝』、『町奉行』までが常に決まっていて、この順序を変えることは許されないという。十五夜踊の最後は『六十節』で、これが始まると見物人も参加し大きな輪となって踊り、やがて三味線が六調【ろくちよう】に変わると輪がくずれて大勢での乱舞となる。ややあって二番組の人々は座にもどり道具を整え『沖泊唄』を歌った後に、列をつくって広場から退場して一連の十五夜踊が終わる。なお旧暦三月と十月には行わないが、旧暦八月十五日には『六十節』の前に、二番組が『獅子【しし】』を出し、次に集まった人々によって盛大に綱引きが行われる。この綱引きは勝負をつけずに綱を切って終わりとする。
『アミタボウリ』の先頭に掲げる大旗は、地元で豊年の神のように尊重されているもので、七メートルほどの竹を旗棹【はたざお】とし最上端に竹輪を取り付け、たわわに実った稲穂をかたどったという飾りを付ける。旗の大きさは一・二メートル四方ほどで中央に嶋中安穏と大書し双龍や日輪を描いている。踊りの間にこの大旗が、風などで折れたり倒れたりすることを最大の不吉とし、そのため二番組が担当する旗主あるいは旗差【はたさ】しとよばれる旗持ち役は、非常な潔斎を要求され、かつては潔斎が一か月に及んだという。この大旗とグン(太鼓)の胴は、十五夜踊が創始された時以来のものと伝え、大旗と同様にこの太鼓も御神体として尊重されている。
この十五夜踊は「豊年踊【ほうねんおどり】」、「ユガプウ(世果報=世が富む)踊」、「サトゥヌシ(里主)踊」、「サトゥヌシビ(里主子美〔部〕)踊」、「シニュグ踊」などとも、また風流踊りを「城籠踊【じようろうおどり】」、狂言を「大和踊【やまとおどり】」とも称した。
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