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知覧城跡

ちらんじょうあと

概要

知覧城跡

ちらんじょうあと

城跡 / 九州 / 鹿児島県

鹿児島県

南九州市

指定年月日:19930507
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

日本の中世の城跡を考える時、特色ある一つのグループがある。南九州の直立した崖をなすシラス地形を利用して作られた城がそれである。知覧城跡はそのなかでも最も保存がよく、規模も大きな城跡で、南九州タイプの城を代表する。
 知覧城は標高170メートルの台地上を刻む浸〓(*1)谷を利用して、大きく二群の城と、周辺の屋敷群から成っている。北の一群は切り立ったシラス崖によって本丸、[[倉ノ城]くらんじょう]、[[今城]いまんじょう]、[[弓場城]ゆんばじょう]の4つの独立したくるわに画されている。本丸は南方に虎口をもつ南北70メートル、東西70メートルのくるわで四周に土塁をもつ。その南方に低い平坦地をはさんで南西に倉ノ城とさらに西に小さなくるわがある。本丸の南東には、40メートル、幅30メートルの空濠をへだてて今城がある。南北120メートル、東西60メートルのくるわで、東、北、西に土塁がめぐり、西に虎口がある。その南西は弓場城に続いている。
 この一群から幅70メートルの自然の谷をへだてて南西に[[式部殿城]セキツトンジョ]、南の栫、児が城の3つのくるわから成る一群がある。この各くるわは濠によってへだてられているが、さらに大きく南から西にかけての深い濠に囲まれている。児が城はフッジョ(古城)とも呼ばれる。この二群の周辺には東の栫、蔵屋敷、西の栫と呼ばれる区画があった。
 各くるわは40メートルにも及ぶ切り立った崖によって守られており、人を寄せつけぬ険しさは、見るものを圧倒する。
 知覧城は島津氏(佐多氏)の居城である。文和2年(1353)島津氏四代忠宗の三男忠光(佐多氏初代)は「知覧院郡司跡」を勲功賞として得ている。応永27年(1420)、島津氏の内訌のなかで、島津庶流伊集院頼久の一族今給黎久俊が知覧を支配していたが、守護島津久豊がこれを降し、知覧は「佐多氏由緒之地」として佐多氏四代親久に与えられている。佐多氏の支配は天正19年(1591)十一代久慶まで続くが、久慶は宮村に転封され、文禄4年(1595)種子島久時の所領となり、慶長4年(1599)には島津氏直轄領となる。しかし慶長15年(1610)には佐多氏十二代忠充は「知覧本領」への復帰の願いがかない、再び知覧地頭となり、明治維新を迎えた。
 このように、知覧は佐多氏にとっての「由緒之地」「本領」であったが、佐多氏は島津氏の一流として重要な役割を果たしている。十代久政は、島津氏の九州制覇に際しては天正8年(1580)から豊後に駐屯し、豊臣秀吉による天正15年(1587)島津攻めの際、豊後滝田城で討死している。また十一代久慶は文禄の役に朝鮮に出兵するなど島津氏の将としての活動が顕著である。
 知覧城は久慶の時に火災があり、以後廃城になったというが、近世には知覧は佐多氏私領の外城(麓)となった。知覧領主の仮屋は知覧城の支城であった亀甲城の山麓におかれた。現在知覧麓は重要伝統的建造物群保存地区として保存され、多くの人々が訪れているが、知覧城はこの佐多氏の外城の前身をなすものとしても歴史的に貴重である。
 このように、知覧城跡はシラス地形特有の直立した崖を利用して築かれた南九州型の中世城郭のなかでも代表的なものであり、かつ遺構の保存は極めて良好で、規模も大きい。また島津氏の門流の拠点の城としても、また城主が近世の外城の地頭に連続するという歴史的意義においても重要である。
 よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

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キーワード

城跡 / 島津 / /

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