高知城跡
こうちじょうあと
概要
慶長5年山内一豊は土佐国に封ぜられ、翌6年1月掛川城から浦戸城に移ったが、大高坂山の地を選んで築城することとなり、9月鍬初を行い、同8年8月入城した。城の成ったのは子忠義のとき、同16年頃と思われる。
大高坂山は、南に鏡川が、北に江ノ口川がそれぞれ東流する間に挾まれた平地中に屹立する独立丘陵であって、南北朝時代には大高坂松王丸が、降って天正年間には長曽我部氏もここに拠ったことがあり、要地であったことがうかがわれる。
最高所を本丸とし、その北に通路を兼ねた空堀を隔てて稍々低く2の丸を配し、2の丸の東に一段低く3の丸を置く。本丸、2の丸の西から北をめぐり、3の丸の東にわたって獅の段や帯郭状等の平地を連ねている。城壁はすべて石垣をもって固められ、大手口は南東麓に東に向って開き、搦手口は西麓に位する。堀は山裾をめぐって北方江ノ口川の邊に達していたが、いま追手門から南麓居館跡をめぐってその面影をとどめている。
規模必ずしも雄大と称すべきものではないが、その郭、通路等の配置は巧みで、要を得、就中詰門を構えた本丸、2の丸間の通路の設計はひろく賞讃されているところである。
もとより変改のあともあるが、縄張は略々全容をとどめ、天守を始め、本丸書院、詰門、追手門等建物も多く、近世城郭の遺構として、学術上貴重である。