大知波峠廃寺跡
おおちはとうげはいじあと
概要
大知波峠廃寺跡は、浜名湖西北の弓張山脈の大知波峠(標高350m)に位置する平安時代中期(10世紀半ば〜11世紀末)の寺院跡である。豊川道が峠を越える遠江と三河の国境に位置し、峠を越えた三河側約3kmには式内社である石巻神社があり、南約5kmの弓張山脈最南端には、久寿3年(1156)銘の経筒を出土した真言宗普門寺がある。
大知波峠廃寺跡の北と西は尾根、南は盤石を境とし、東は斜面となっている。平成元年度から同10年度までの発掘調査によって、上下2段からなる池跡と盤石を中心に、石垣をともなう礎石建物跡10棟と門跡1棟が検出され、遺跡の全貌が明らかになっている。上段の池跡は石材と木材により二重の堰を設け、約7m四方の池を造り、下段は石材による堰を設け、約10m×4mの池を造っている。池跡と盤石を囲む5棟の建物跡は、いずれも須弥壇を有する仏堂であり、うち最も大きい1棟は7間×4間(16m×11m)で四面庇をもつ建物である。須弥壇跡の一つにおいて、その正面から灰釉陶器や土師器とともに焼石・焼土が検出されており、須弥壇の前で、火を用いる修法が行われたことをうかがわせる。他の建物跡は僧坊等の居住施設と考えられ、また門跡は池跡の東方に位置している。
出土遺物には、多量の坏、碗、皿、鍋等の緑釉陶器、灰釉陶器、土師器があり、その中に墨書土器が300点以上含まれている。墨書には、「御佛供」、「加寺」、「阿花」、「六器五口」等があり、特に「六器」は密教の法具であることが注目される。
古来、山岳での仏教修行が行われていたことは、『日本書紀』・『続日本紀』などに「志我山寺」(崇福寺)や「吉野寺」、「比曽寺」等の表記が散見することなどによって確認される。また、平安時代になると天台宗、真言宗の伝来に伴い、中央において延暦寺、金剛峯寺、また醍醐寺(上醍醐)等の寺院が山岳に営まれた。これら天台宗や真言宗、さらに修験道等の伝播と各地における仏教文化の発展によって、各地方においても山寺(山形県)、慧日寺跡(福島県)、池辺寺跡(熊本県)等の地域的特色をもつ寺院が営まれた。
大知波峠廃寺跡はそのような地方寺院跡の一つであり、密教系の寺院跡である可能性が高い。遺構の残りがきわめて良好であり、平安時代中期における特色ある地方寺院跡として、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。