菅茶山関係資料
かんちゃざんかんけいしりょう
概要
菅茶山関係資料
かんちゃざんかんけいしりょう
歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 江戸 / 中国・四国 / 広島県
広島県
江戸
紙本墨書
5369点
福山市西町2-4-1
重文指定年月日:20140821
国宝指定年月日:
登録年月日:
広島県
国宝・重要文化財(美術品)
菅茶山(1748~1827)は、江戸時代後期の漢詩人、教育者として知られる。茶山の漢詩は、唐詩偏重を排して宋詩に範をとり、日常の感興を平明かつ写実的に表現する詩風を確立したと評価される。生涯の漢詩2413首を収録する『黄葉夕陽村舎詩』(前編文化9年<1812>、後編文政6年<1823>、遺稿天保3年<1832>)は、当時最も広く親しまれた詩集であり、詩人としての茶山の名声を高めた書物である。一方、天明元年(1781)頃、郷里神辺に私塾黄葉夕陽村舎(後、廉塾、神辺学問所、現・福山市)を開き、多くの門弟を輩出し、後には福山藩の儒者として藩校弘道館にて経書を講じた。この間、青年期および壮年期における度重なる上方への遊学、文化年間の2度にわたる江戸滞在の期間を含めて、全国の学者・文人等と親交を結んだ。
本件は、塾書庫・母屋等に保管されてきた5369点の資料群で、菅茶山の事績に関する最もまとまった一群になる。平成7年および20年に広島県立歴史博物館に寄贈された。
著述稿本類は、漢詩文、和歌、俳句、随筆、紀行文、地誌類および意見書、覚書類からなるが、223点と多数を占める『黄葉夕陽村舎詩』の草稿類が注目される。草稿段階において、茶山自らが詩の選択、校正を繰り返し行っただけでなく、前編は六如、那波魯堂、頼山陽に、後編は武元君立、北條霞亭、頼春水、頼山陽に批正を仰いだことを反映し、これら草稿本も校正段階に応じ内容を異にし、各本に茶山による切継、校正、選択や批正者による選択、註記等が施され、出版に至る経過を伝える資料群となっている。
文書・記録類は、日記、記録、文書、覚書および詩歌類からなる。日記は日用日記と紀行日記に大別され、前者は寛政12年(1800)から文化10年までの間の4冊が知られる。廉塾に関しては、「廉塾日記」、「廉塾規約」、「預銀差引帳」等から西国における著名な儒学教育塾であった同塾の塾生の在籍状況や塾の経営の実際を知ることができる。
書画類は、蠣崎波響筆「巨椋湖舟遊図」、谷文晁、鈴木芙蓉画、柴野栗山、古賀精里等詩の「栗山堂餞筵詩画巻」をはじめ、茶山と諸人との交遊を背景に作成されたもので、画僧白雲、大野文泉、広瀬蒙斎等松平定信周辺の画家・学者が多く見出されることも特徴である。
典籍類は、茶山在世時の廉塾の蔵書を中心に茶山及び一族手沢本を含む。廉塾における教授内容を反映し、漢籍、儒学書が充実し、和書では歴史、文学を中心とする。
器物類の多くは板木である。そのなかで、アイヌ工芸品9点(煙草入・印籠・小刀拵・小物入等)は、製作時期に一定の確証のあるアイヌ工芸品としては最古例と考えられる。
以上のように、本資料群は菅茶山の事績および思想、作品を理解するうえで最も重要な資料であるとともに、江戸時代後期における茶山と文人等との交友関係をつぶさに伝え、わが国文学史ならびに文化史研究上に価値が高い。