筏井竹の門書簡(発田喜太郎宛)
いかだいたけのかどしょかん ほったきたろうあて
概要
筏井竹の門書簡(発田喜太郎宛)
いかだいたけのかどしょかん ほったきたろうあて
歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 大正 / 富山県
筏井竹の門 (1871~1925)
いかだいたけのかど
富山県高岡市
〔1〕大正期年未詳10月15日付
〔2〕大正期年未詳10月17日付
紙(北一合資会社(小馬出町)用箋)・墨書・軸装
〔1〕〔本紙〕縦23.3㎝×横30.7㎝
〔全体〕縦99.7㎝×横39.6㎝
〔軸長〕45.8㎝
〔2〕〔本紙〕縦23.1㎝×横43.5㎝
〔全体〕縦114.2㎝×横54.6㎝
〔軸長〕60.4㎝
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-37
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)
本資料は、明治から大正にかけて高岡の俳壇で活躍した筏井竹の門(1)自筆の書簡2通を軸装したものである。書簡は竹の門の勤め先の北一合資会社(2)の用箋を使用している。用箋右端に大正の印字があり、竹の門は没年の大正14年まで勤続していたことから年代は大正期といえる。大正9年に北一合資会社が改組し北一株式会社となるが大正9年以前に書かれたものか、改組し不要となった用箋を使用したものか、いずれも考えられるため年代の特定はできない。
自筆2通は木舟町の発田喜太郎宛の書簡で、内容は発田家の猿滑の枝を1、2枝所望したい旨とその礼状である。発田喜太郎氏について詳細は不明である。竹の門が猿滑の枝を所望したい旨や材料とするものがあれば恵与願うといった手紙の内容から、竹の門と近しい間柄だったと思われる。
竹の門は明治30年木舟町の呉服商筏井家の長女いとと結婚し、片原町の裏手に明治33年6月27日の高岡大火まで住んでいる。罹災した竹の門は桐木町へと移住することになるが『竹の門遺墨集 続輯』『竹の門遺墨集 第3輯』には木舟町に居を構えていた発田平兵衛、室崎間佐一、室崎信一、棚田喜作、志浦三郎平らが竹の門の作品を所蔵していたことから入婿先の木舟町の住人らとの交流があったと思われる。定塚武敏氏は『筏井竹の門作品集』で「彼は絵を金に替えることは全く消極的で、ほとんど知人にくれてしまった」と記しており竹の門の絵を所蔵している彼らは知人の一人だったといえる。昭和39年の『木舟町便利図』によれば木舟町居住の発田姓が平兵衛氏と林次郎氏の2軒あり、発田平兵衛氏が百日紅の作品を所蔵していることから平兵衛氏と喜太郎氏になんらかの関係があったかとも思われるが確定することはできない。また平兵衛氏においては江沼半夏著『筏井竹の門覚書』に都度記されている同氏と同一人物である可能性が高い。
書簡2通はいずれも罫線に縛られず字は大きさや高さが不揃いで一見拙いように見えるが、微妙な揺れとずれに心地よい絶妙なバランスがある。字は俳画と同じくおそらく速書で書かれたものと推測できる。10月15日付の一行目「拝啓秋冷益御清」や10月17日付の末行宛名の「発田様」は王義之(3)や懐素(4)の草書の素養が強く見受けられる。
江沼前提書に「大正七年の竹の門の歌に、「未翁(5)庵にて」と注した「良寛の曙覧の遺墨打展べて語らふ夜半の雨となりけり」の一首を見るが、いかにも心楽しい文雅の対座のさまが思いやられる。」(149p)や「王義之と良寛(6)」の書に惹かれたということからも竹の門は彼らの書に影響を受けたといえる。良寛の枠にはまらない自由な筆の運び、スピード感はこの2通からも伺うことができる。本資料は竹の門が自然の風物をスケッチし、俳画に向かう姿勢を伺うことができる貴重な資料といえる。保存状態は概良好である。
(参考文献)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行
・『木舟町便利図』 発行兼編集者 室崎信一 1969発行
・『竹の門遺墨集第3輯』 編集兼発行者 寺田彦弌 発行者北一株式会社内白鳳会
昭和20.9発行
・『竹の門遺墨集続輯』 編集兼発行者 寺田彦弌 発行者北一株式会社白鳳会
昭和11.7.1発行
・『筏井竹の門作品集』編集及発行 高岡西ロータリークラブ社会奉仕委員会
昭和58.3.12発行
・『高岡の町々と屋号』第2号 編集発行 高岡旧町諸商売屋号調査委員 高岡市立図書館 平成6.3.25発行
・『筏井竹の門遺墨百選』編集及び発行 高岡市立美術館
・ 北一株式会社HP
・『日本商工業別明細図之内 富山県高岡市』昭和28.9.5発行
・『高岡市 第日本職業別明細図』昭和15.11.25発行
・『大日本職業別明細図之内 富山県高岡市伏木町新湊町氷見町』大正14.1.28発行
・『日本の美術116号 良寛』 堀江知彦編 至文堂 昭和51.1.15
<注>
(1)筏井竹の門(いかだい たけのかど)
1871・11・28~1925・3・29(明治4・10・16~大正14)
俳人・俳画家。名をたけのかど、たけのもんとも呼ぶ。北雪(ほくせつ)・四石(しせき)の別号がある。本名は虎次郎、旧姓向田(むくた)。旧金沢藩士の家系。金沢市に生まれる。1892年(明治25)高岡に転居、繊維商北一合資会社に勤務。97年日本派俳句会越友会の結成に参画。1900年高岡大火後に移住した桐木町の住居を〈松杉窟(しょうさんくつ)〉と呼び各地の俳人が来遊した。河東碧梧桐に師事し、越友会の指導者、『高岡新報』俳壇の選者となり俳誌『葦附(あしつき)』の刊行、浪化忌の開催など越中俳壇に貢献する。大正期には自由律俳句に向かう。また冨田渓仙・小川芋銭らと親しく往来して俳画に打ち込み,多数の淡彩墨画を遺す。句集・歌集・遺墨集4種がある。享年55。子息は歌人の筏井嘉一。
(参考文献)
・江沼半夏/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20190213アクセス)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行、10p
・『筏井竹の門遺墨百選』高岡市立美術館編集及び発行、昭和49年、年譜
(2)北一(きたいち)
竹の門勤務先の小馬出町の綿糸布石油等卸販売業(社長・室崎間平)。竹の門は明治30年(1897)8月の北一合資会社創立とともに入社し没年まで勤続。北一における竹の門の仕事は「庶務兼計算係」であったという。同社には竹の門筆の帳簿や辞令が残っている。竹の門の画集『竹の門遺墨集』(昭和2年5月)『同続輯』(昭和11年6月)『同第三輯』(昭和20年9月)は「北一」の肝入りで出版。
(参考文献)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行4p、101p
・『筏井竹の門遺墨百選』 高岡市立美術館編集・発行 昭和49年10月1日発行
・『高岡老舗100年展』高岡商工会議所・高岡老舗会、平成21年、13p
(3)王義之(おうぎし)
307~365
中国、東晋の書家。琅邪臨沂(ろうやりんき)(山東省)の人。字(あざな)は逸少(いつしょう)。その書は古今第一とされ、行書「蘭亭序」、草書「十七帖」などが有名。書聖と称される。子の王献之とともに二王といわれる。
HP「小学館/デジタル大辞泉」20190213アクセス
(4)懐素(かいそ)
725ころ~785ころ
中国唐の書家・僧。永州零陵(湖南省)の人。俗姓は銭。字(あざな)は蔵真。風変わりな味のある草書を得意とし、酔っては書きなぐった。「草書千字文」「自叙帖」など。
HP「小学館/デジタル大辞泉」20190213アクセス
(5) 未翁(みおう)
1868~1945(明治元・12・~昭和20・1)
本名は桂井健太郎。明治元年12月、現在の今石動字門前町に生まれた。16歳のころから俳句に興味をもち楚笛と号を付けたが、明治23年には未央と改めている。未翁は晩年の俳号である。未翁は石動電信局に勤め、高岡銀行員に転じ、城端町へ移って町役場の助役に選出された。金沢へでて菓子舗石川屋に働き、大正9年52歳で北國新聞へ入社している。未翁の俳人としての活動は北声会の中心としてあったばかりでなく、大正4年には「ヤカナ吟社」を設立し俳誌「藪巻」を創刊したり、昭和8年には俳誌「白山」の発行人となり、昭和9年には直野碧玲瓏の記念誌「碧玲瓏」を編集発行している。昭和20年1月、76歳で没。
(参考文献)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行
(6) 良寛(りょうかん)
1758~1831(宝暦8年~天保2年)
江戸後期の禅僧,歌人,書家。俗名山本栄蔵。号は大愚。越後出雲崎の名主兼神職の子に生まれた。18歳で出家,22歳ころから国仙和尚に従い備中玉島円通寺で10余年修業。その後各地に草庵を結び,47歳のとき越後国上(くがみ)山の五合庵に入った。生涯,寺をもたず托鉢によって生活し,法を説かずに感化を与え,郷党の深い尊信を受けた。《万葉集》を愛し,格調高く,しかも自在純真な歌を読み,書は懐素を慕って風韻に富んでいる。全集,歌集のほか評伝も多い。
出典 ・百科事典マイペディア 20190207
・デジタル大辞泉 20190214アクセス
〇以下各々解説
① 十月十五日付
【釈文】
(端書)「喜作様によろしく」
拝啓、秋冷益御清
適奉大賀候、且後ハ
いつも御無沙汰奉謝候、
昨日一寸貴家の横を通り候
処、猿滑りの花のまが
れ処が面白く、一、二枝御割
にて願上候、
花の頃ハ白花なりし故、小
生等の手に合はず、斯事
情趣ハ古径などの草に待
つより外無之と存候、近々
大牧温泉へ入浴可致、其折
ハ拙画御叱正に預り度候、
先ハ御伺まで、草々
十月十五日
筏井生
発田様
(裏)封筒
木舟町
発田喜太郎様
十月十五日
北一にて
筏井虎次郎
(内容)
昨日貴家(発田家)の横を通ったところ猿滑の花の様子に趣があり1、2本わけていただけないだろうか。花は白花がよく情緒があるのは小径などの草がよい。近々大牧温泉へ入浴しにいくのでその折には自分の拙さ、愚かさを直していただきたい。まずは御伺まで。
(解説)
この書簡から竹の門が何気ない草木を愛し無心に素直に表現したいと望んでいる様子が伺えられる。大牧温泉へは大正3年頃から勤め先「北一」の経営者一族(2代室崎間平の養弟)の室崎間左七老人とともに、秋になると10日間から半月位の湯治に出かけ、大正13年秋まで続いたことからこの大牧行きもそのうちの一回だったと考えられる。
② 十月十七日付
拝啓、先日ハ柘榴、猿滑
御恵贈に預り忝御礼
申上候、此頃少閑あり候、
少々拙画相試み申候
まゝ御一笑被下度候、
尚材料とするものあらバ
御恵与願上候、
猿滑りハ先般致候、先日
支那の徐青藤(7)といふ人
の絵巻に百日紅の絵あり、
小生も試みたく存候処、
前陳の次第御一笑
被下度候、別紙も紙の質あ
しく充分思ふ様なる
情趣も出で不申、
汗顔の至りに候、
先ハ御礼まで、草々
十月十七日 筏井生
発田様 硯北
(内容)
先日は柘榴、猿滑をありがとうございました。このところ少し閑ができたので少し試みています。ご一笑下さい。なお材料とするものがあれば御恵与下さい。支那の徐青藤という人の絵巻に百日紅の絵があり私も試みたいと思っています。ご一笑下さい。別紙も紙質が悪く情緒もでていません。恥ずかしい気持ちでいっぱいです。
まずはお礼まで。
<注>
(7) 徐青藤(徐渭)(じょせいとう)(じょい)
1521~1593
中国,明代の画家,詩人。字は文長,号は天池・青藤。浙江の人。貧窮と狂騒の破滅型の一生であったが,芸術的天分を多方面に発揮,詩文・書画にすぐれたばかりでなく,戯曲の創作や評論,老荘や仏教に関する著述もある。その水墨画は颯爽(さっそう)として気力に満ち,筆墨の効果の偶然性を尊重し,写意の理念に支えられて感情表出に重きをおいたもの。墨気豊かで筆力の激しい浙江絵画の伝統の上にたち,揚州八怪の花卉(かき)雑画の先駆者といわれる。
出典 ・百科事典マイペディア 20190222アクセス
・デジタル大辞泉 20190222アクセス
(解説)
竹の門はセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの作品を愛し与謝蕪村、池大雅、浦上玉堂等を研究したといわれている。書簡の徐青藤は詩文書画に優れ、文人の墨戯のあり方を示す自在な水墨画をよくし、とくに花卉雑画にすぐれ、後世に大きな影響を与えたとされている。俳人、画人としての竹の門も徐青藤に影響を受けた一人と思われる。なお、徐青藤(徐渭)の墨書は東京国立博物館が花卉雑画巻等を所蔵している。
(参考文献)
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/ 20190222アクセス
・文化遺産オンラインHP 20190222アクセス