梅花静物
概要
安藤仲太郎が天絵舎に入った時期についてはわからないが、天絵舎の前身である天絵桜を高橋由一が創設したのは1873 (明治6)年であり、1976(明治9)年から毎月第1日曜日に、教員及び学生の油絵を並べて一般に公開していた。安藤仲太郎が師事した高橋由一の「鮭」(重文)の制作は1875~77(明治8~10)年で、この公開していた展覧会についての安藤仲太郎の思い出に、「高橋が描いた鮭などはなかなか大評判でありました」と記されていることから、比較的早くから高橋由一に師事していたことがわかる。
安藤仲太郎は高橋由一の甥にあたり、天絵学舎の塾頭をつとめるなど、天絵学舎でも重要な役割を担い、高橋由一が没した 翌年の1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会では、黒田清輝、松岡寿、小山正太郎と共に審査官を務めるなど、高橋由一の後継者と目されつつ、洋画の開拓期にその先駆者として活躍していた。
また、1896(明治29)年、第1回白馬会展に出品した 「東寺」では微妙な光の変化をとらえた外光派の作風を示し、一方、「大久保利通像」(1886年、東京国立博物館蔵)、「伊藤博文像」など当時の名士の肖像画を数多く制作している作家でもある。
この「梅花静物」は、安藤仲太郎28歳の作で、机上の梅花、花器と赤い実を持つ木の葉といった机上の対象を、肉薄するような写実的描法で描き、高橋由一の影響を窺うことができる作品で、近代洋画史上、開拓期の時期にある作品として貴重な作品といえる。