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年未詳三月五日付 前田利長・永姫侍女奉書(三ゑもん宛)

ねんみしょうさんがついつかづけ まえだとしなが えいひめじじょほうしょ さんえもんあて

概要

年未詳三月五日付 前田利長・永姫侍女奉書(三ゑもん宛)

ねんみしょうさんがついつかづけ まえだとしなが えいひめじじょほうしょ さんえもんあて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利長・永姫侍女(千福)  (1562~1614)

まえだとしなが えいひめじじょ せんふく

富山県高岡市

江戸時代初期

紙本・巻子・墨書

縦28.7㎝×横39.7㎝

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-163

高岡市(高岡市立博物館保管)

加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長(※1)、及びその夫人永姫(※2)の意を受けて侍女・千福(※3)が出した書状である。宛所の「三ゑもん」、即ち上坂家(※4)の薬師(くすし)・三右衛門に対し、利長より「はかり(秤)」を下賜している。治療のお礼と思われる。
 利長は高岡入城(1609年)の翌年春(※5)に「腫物」(梅毒の症状か)を発症し、病床に伏した。病状は一進一退を繰り返したが、同19年(1614)5月20日に死去するまで本復はしなかった。池田仁子氏の研究(※6)によると、その間、治療にあたった医師・薬師は、幕府から派遣された盛方院(吉田浄慶)・慶祐法印(曽谷寿仙)、薬師「一くわん」(※7)、高岡利屋町・聖安寺、藩医の内山覚中(覚仲)・藤田道閑・坂井寿庵、そして、宇佐美孝氏(※8)によると「石半左」(山崎長郷紹介の薬師)も治療にあたったことがされている。しかし、この上坂家の薬師三右衛門の名は上がっていなかった。
 だが本史料以下、三右衛門関連5通(巻子装)を含む、上坂家文書35点は木倉豊信氏により、既に紹介済である(※9)。その中で木倉氏は本史料(14号文書)を慶長15年と推測しているが、病に倒れてから亡くなる同19年までの可能性もあると考えられる。
 本史料は令和元年(2019)7月27日~10月14日の当館開催の特別展「前田利長書状展」の出品された文書である(展示№27)。
 状態は本紙全体にオレ、シミがみられる。

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【釈文】

此はかり(秤)、殿さま(前田利長)より
三へもんに下され候、
 三月五日(黒文円印「長盛」)
   三ゑもん殿へ
      せんふく

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【注】
※1 前田 利長 まえだ としなが 永禄5(1562)・1・12~慶長(1914)・5・20
 加賀藩第2代藩主。前田利家の嫡男として尾張国愛知郡荒子(現名古屋市中川区)に生まれる。初め利勝。織田信長の命により父利家と各地を転戦。1583年(天正11)加賀国石川郡松任4万石に封ぜられたが,佐々成政が豊臣秀吉に屈したことから,85年その旧領のうち砺波・射水・婦負3郡に封ぜられ,射水郡守山城を居城とする。またこの年羽柴姓を許され,従5位下肥前守に叙任される。97年(慶長2)新川郡富山城を修築して入城。98年前田氏の家督を相続,従3位権中納言に叙され金沢に移る。99年利家の死後,豊臣政権の五大老に列す。豊臣政権分裂に際して前田氏存続に努め,1600年の関ケ原合戦では徳川方につく。戦後徳川家康から加賀国能美・江沼2郡を与えられ,加越能3カ国のほぼ全域を領有する大大名となり,十村制度の創設,05年越中総検地など領国統治を進める。同年家督を嗣子利常(利家4男)に譲り,新川郡22万石を養老封として富山城に隠居。その後も藩政を総監し徳川氏・豊臣氏間の対立激化の中で動揺する家臣団の統制に意を尽くす。09年富山城焼失後一時魚津城に移住。同年射水郡関野(せきの)に新城を構築・移住し,高岡と改称する。10年腫物(はれもの)を患い,翌年さらに悪化するに及んで遺言書を認める。また家臣団を本藩に返して徳川氏への親近の姿勢を示す。14年病気悪化の中で京都隠棲を幕府に願って許されるが果たさず,高岡城で死去。享年53歳。法号瑞龍院聖山英賢大居士。参考:『加賀藩史料』編外備考,『寛政重修諸家譜』巻1131,高澤裕一「前田利長の進退」(高澤裕一編『北陸社会の歴史的展開』)。〈見瀬和雄〉
(『富山県大百科事典〔電子版〕』北日本新聞社、2010/20200326アクセス)

※2 永姫 えいひめ 天正2(1574)・?・?~元和9(1623)・2・24
 玉泉院・永姫は織田信長の四女(五女説あり)として生まれ(見瀬氏は岐阜生まれと推察する)、1581年、7歳の時、前田利家の嫡男・利長(当時越前府中城主)の正室となった。1582年、父信長に呼ばれ、利長と共に本能寺を目指すも、途中で本能寺の変の急報を聞き、前田家の旧領尾張荒子に逃げたと伝えられる。嗣子を生むことはできなかったので、利長は異母弟の利常を養嗣子として迎え、家督を譲って隠居している。1614年に利長が越中高岡で亡くなると、永姫は金沢城西の丸(玉泉院丸)に戻って剃髪し、玉泉院と号した。享年50。法号は玉泉院松厳永寿大姉。
(日置 謙『加能郷土事彙』1942/見瀬和雄(講演要旨)「玉泉院の生涯」金沢学院大学、2013.6.29/村瀬博春『加賀前田家 百万石の名宝』石川県立美術館、2015)

※3 千福 せんふく(ぷく?) 生没年未詳
 前田利長夫人永姫(玉泉院)の侍女(老女)。天正9年(1581)、永姫が前田利長(当時越前府中城主)に輿入れした際、千福は宰相、小大夫など共に侍女として付いてきたとみられる。
(見瀬和雄(講演要旨)「玉泉院の生涯」金沢学院大学、2013.6.29)
 大西泰正編「前田利長発給文書目録稿」(『前田利家・利長』戎光祥出版、2016)に次の7通(本史料含む)その名が見られ、永姫(玉泉院)の意を受けて書状を発給している。
 ①(大西リスト№908)本史料
 ②(№921)年未詳3月13日付、稲荷神主宛(稲荷神主に策配を求めるにつき)
 ③(№925)年未詳3月15日付、鈴木・五兵衛宛(稲荷神主の兄、加賀より罷り越すにつき)
 ④(№1007)年未詳5月2日付、薬師三右衛門宛(節句祝儀(鱸)につき)
 ⑤(№1012)年未詳5月3日付、小左衛門宛(東岩瀬の十郎左衛門から進物につき)
 ⑥(№1019)年未詳5月7日付、稲荷神主豊後宛(嘉例御礼につき/「小太夫」と連名)
 ⑦(№1145)年未詳8月5日付、岩峅別当宛(進物につき)
 他には高岡市石堤・長光寺(小太夫が嫁ぐ。利長肖像画伝来)宛・旧蔵の、〔元和4年(1618)〕3月16日付(杉原紙の返礼につき)の記録がある。
(木倉豊信編「石堤 長光寺古文書」1940年の19号文書)
 また、小矢部市埴生の医王院の十王像は明治2年に加賀国河北郡倶利伽羅村長楽寺より移転されたものだが、それらには、千福をはじめ宰相・少将(この3名のみ「殿」あり→老女カ)など多くの侍女や小姓らの胎内銘がみられる。そのうち「宋帝王」には「慶長拾七年壬子十一月六日 木室/為二世安楽也 護持施主六人/一、若君様(利常カ) 一、千福殿 一、おち 一、おさく 一、さい将殿 一、おひめ」とある。「東ノ丸様(芳春院カ)御ひめ様(永姫カ)如(女)衆共」ニ為施主二世安穏也」とある。
(『富山県史』通史編Ⅳ 近世下、富山県、1983、p603-605)
 さらに、立山岩峅寺の前立社壇に石彫狛犬があるが、これが「玉泉院の狛犬」との伝承がある。前立社壇に円光坊が玉泉院のために祈祷をした礼状に、翌年狛犬を寄進すると侍女の千福の奉書にみえるから、元和の初年の作であろう。
(『富山県史』通史編Ⅳ 近世下、富山県、1983、p608)

※4 上坂家 こうさかけ
 「上坂家文書」を伝える上坂家は守山城の西麓の高岡市東海老坂に古くより住んだ有力農民、もしくは下級武士と思われる。のち十村分役の山廻役を長く務めた旧家である。「先祖由緒并一類附書上帳」写(役儀4代「御用留」当館蔵)によると、元禄3年(1690)五兵衛の時初めて山廻役に任命されたので、同家ではこの五兵衛を「役儀初代」としている。五兵衛は宝永3年(1706)11月に病死している。
(木倉豊信「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号(1966.3)、役儀4代東海老坂村五兵衛「御用留」当館蔵)

※5 利長の腫物発症時期
 慶長15年(1610)3月、将軍徳川秀忠は利長に対し「腫物被相煩候由、如何候哉無心元候」、同4月には大御所徳川家康より「煩無心元候間、使者差遣候、無油断御養生専一候」(『加藩国初遺文』)と見舞いの書状が届いており、宇佐美氏は「これから利長の病は慶長十五年三月には周知のものとなっており、高岡に城を移した慶長十四年には発病していたとも考えられよう。」と推察している。
(宇佐美 孝「文献史料調査に関する考察」『高岡市 前田利長墓所調査報告』高岡市教育委員会、2008)

※6 池田仁子『近世金沢の医療と医家』岩田書院、2015

※7 薬師「一くわん」
 鈴木景二「前田利長書状二通」『富山史壇』189号(2019.7)

※8 宇佐美 孝「加賀藩史料から見た前田利長墓所の変遷」『高岡市 前田利長墓所調査報告』高岡市教育委員会、2008

※9 木倉豊信「上坂家文書目録」『越中史壇』28号(1964.3)、「上坂家文書(続)」『富山史壇』33号(1966.3)

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