世界遺産と無形文化遺産
仁徳天皇陵古墳、茶山古墳、大安寺山古墳
にんとくてんのうりょうこふん、ちゃやまこふん、だいあんじやまこふん
主情報
- 記載物件名
- 仁徳天皇陵古墳、茶山古墳、大安寺山古墳
- 写真提供
- 堺市提供
解説
詳細解説
百舌鳥エリアの中央部に位置する前方後円墳で、日本最大の古墳。台地の西縁部に、等高線と墳丘主軸線を並行させるように前方部を南に向けて造られる。大阪湾からの眺望を大いに意識した場所と墳丘の方向が選ばれている。茶山古墳と大安寺山古墳が堤上に築かれている。そのほか濠の周囲には、多数の古墳が近接して位置する。
仁徳天皇陵古墳の墳丘長は486 m、濠を含めた全長は840 m、高さは後円部で34.8 m。墳丘は3段に築かれ、くびれ部の両側には造り出しが設けられる。
後円部の埋葬施設は、江戸時代の地誌(『全堺詳志』1757 年)によれば石棺が用いられており、長さ318cm 程度、幅167cm 程度で、国内最大級の石棺である。
1872 年には、前方部の南斜面で竪穴式石槨と長持形石棺が露出し、副葬品が出土した。石槨、石棺、副葬品は見取り図が作成され、副葬品にはほかに例を見ない銅板に鍍金を施した甲冑や西アジアからもたらされたと推測されるガラス製容器が含まれていたことがわかっている。副葬品は石槨に戻され、石槨と石棺も埋め戻されて保存されている。
墳丘の周囲は三重の濠が取り囲んでいる。三重の濠が巡らされる巨大前方後円墳は、仁徳天皇陵古墳が唯一である。
巨大な墳丘や広大な濠の築造に要した年月は、ある試算によれば一日最大2,000 人が従事したとして15 年8か月を要し、述べ680 万人が従事したとの結果が提示されている。
墳丘や濠からは円筒埴輪、形象埴輪が、造り出しからは須恵器の甕が出土した。円筒埴輪は2万9千本以上が樹立されたものと想定されている。築造時期は中期中葉と考えられている。
茶山古墳は、仁徳天皇陵古墳の中堤と一体に造られた円墳。中堤が外濠側へステージ状に広がった部分に墳丘が築かれる。濠に挟まれた堤の上に墳丘が造られることはきわめて異例で、本墳と後述する大安寺山古墳以外には認められない。周辺の古墳と比較してもひときわ仁徳天皇陵古墳との結びつきが強い古墳である。
墳丘径は56 m、高さは9.3 m。墳丘は2段に築かれていたようである。仁徳天皇陵古墳の外濠から出土した人物埴輪や馬形埴輪等は本墳の北側から出土したとされるため、本墳に立てられていた可能性が指摘される。
大安寺山古墳も、仁徳天皇陵古墳の中堤と一体に造られた円墳。中堤が外濠側へステージ状に広がった部分に墳丘が築かれる。
墳丘径は62 m、高さは9.7 m。百舌鳥エリア最大の円墳である。墳丘は2段に築かれていたようである。