文化遺産オンライン

世界遺産と無形文化遺産

応神天皇陵古墳、誉田丸山古墳、二ツ塚古墳

おうじんてんのうりょうこふん、こんだまるやまこふん、ふたつづかこふん

主情報

記載物件名
応神天皇陵古墳、誉田丸山古墳、二ツ塚古墳
写真提供
羽曳野市教育委員会

解説

詳細解説

 応神天皇陵古墳は、南北に張り出した台地の西側縁辺部に位置する。墳丘長は日本第2位の前方後円墳である。前方部を北に向けて造られる。
 濠に近接して、誉田丸山古墳と二ツ塚古墳を応神天皇陵古墳と一体的に造っている。
 墳丘長は425 m、後円部の高さは36 m。墳丘長では仁徳天皇陵古墳に第1位を譲るが、墳丘の体積では第1位とされる。墳丘は3段に築かれ、前方部の北西側が崩落している以外は築造当時の姿をよく保っている。この崩落は地震によるとの説が、近年では有力である。くびれ部の両側には造り出しが設けられる。
 前方部の頂上には方形の土壇が築かれている。前方部頂上では、かつて竪穴式石槨が現れたという記録があり、この土壇内に造られていた可能性がある。後円部の頂上には、明治時代まで南に隣接する誉田八幡宮の奥の院として六角堂が建立されていた。
 墳丘の周囲には二重の濠が巡り、外濠の周囲には外堤も伴う。内濠は東側で大きく屈曲するが、これは先行して造られていた二ツ塚古墳を避けたためと考えられている。この部分の外濠は二ツ塚古墳の濠と一体化している模様である。外濠は埋没保存されている。
 墳丘や濠からは円筒埴輪、形象埴輪が出土している。とくに数多く出土した水鳥形埴輪が特筆される。円筒埴輪は2万本以上が樹立されたものと推定されている。そのほか、魚や鯨、蛸等を象った土製品が出土しており、古墳で行われた儀礼の一端を示している。築造時期は中期中葉
と考えられている。
 誉田丸山古墳は、応神天皇陵古墳の北側の、外濠に接して造られた円墳。墳丘の位置から、応神天皇陵古墳と関わりのある古墳と考えられる。
 墳丘径は50 m、高さは7m。墳丘は2段に築かれる。墳丘からは応神天皇陵古墳と同様の円筒埴輪のほか、形象埴輪が出土している。築造時期は中期中葉と考えられている。
 誉田丸山古墳から1848 年に出土したと伝えられる金銅製の馬具等が、古墳の南側に接して位置する誉田八幡宮に所蔵されている。鞍金具をはじめとする豪華な馬具(国宝)は中国東北部、あるいは朝鮮半島から伝来したものと推測されており、我が国最古級のものである。
 二ツ塚古墳は、応神天皇陵古墳の前方部東側の内堤に接して造られた前方後円墳。
 墳丘長は110 m、後円部の高さは9.9 m。墳丘は2段に築かれていたようである。濠は応神天皇陵古墳の外濠と一体化する模様であり、応神天皇陵古墳に取り込まれた状況を呈する。その状況から応神天皇陵古墳と関わりの深い古墳と考えられる。
 円筒埴輪が出土している。築造時期は中期中葉と考えられている。