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富士山本宮浅間大社

ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ

主情報

記載物件名
富士山本宮浅間大社

解説

詳細解説

富士山本宮浅間大社は、富士山火口部の底部を居処とする浅間大神を遥拝し、その噴火を鎮めることを目的として創建された神社である。国内各地に数多く勧請された浅間神社の総本宮であるとされており、今日、日本の東部を中心に広く信仰の対象となっている。 社伝によると、9世紀初頭に、富士山に近い位置に遥拝所として存在した山宮浅間神社から、現在の地に分祀したとされており、古くから富士山南麓における中心的な神社であったことが知られる。9世紀中頃に京都の朝廷は富士山本宮浅間大社に従三位の神階を与え、これを順次高めていくことにより浅間大神を慰撫し、富士山の噴火を鎮めようとした。また、『吾妻鏡』は、1223年に富士山本宮浅間大社の社殿が造営されたと伝える。 その後、15世紀頃に富士山への登拝が盛んとなるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(構成資産4)(興法寺)とともに大宮・村山口登山道(現在の富士宮口登山道)(構成要素1-2)の起点となり、境内の周辺に道者の宿坊が建設されるようになった。 また、各時代の権力者とのつながりも深く、特に徳川幕府の強力な庇護の下に社殿・境内の整備が行われた。1606年には、徳川家康(1542~1616)43の庇護の下に、現在の本殿等の建造物が造営された。 本殿は日本国内では他に類例のない「浅間造り」と呼ばれる2層構造の特殊な形式を持ち、丹塗りが施されている。初層は桁行5間、梁間4間の寄棟造、2層目は三間社流造である。屋根は初層・2層ともに桧皮葺で、組物には極彩色が施されている。1670年当時の境内を描いたとされる古絵図には、現在と同じ配置の下に鳥居、参道、鏡池及びそれに架かる輪橋(太鼓橋)、楼門、拝殿、本殿、末社等が描かれている。 この絵図には神仏分離令以前に存在した仏教施設も描かれており、境内における発掘調査により、その遺構の一部が確認された。 登拝活動が拡大・活発化し、富士山中における山役銭及び登山道の支配等に係る諸権利が設定されるようになったのに伴い、1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が八合目以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された。 富士山本宮浅間大社の境内には、富士山の湧水を水源とする湧玉池が存在する。社叢に覆われた境内北半部の丘陵地は富士山の溶岩流の末端部に当たり、そこから湧き出す豊かな水が湧玉池を潤している。富士山本宮浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮めるという考え方及び富士山を聖なる水源の山として崇めるという考え方に基づき、1日平均14万?にも及ぶ豊富な湧水量を誇る湧玉池のほとり に建立されたとする説が有力である。16世紀に製作された『絹本著色富士曼荼羅図』をはじめとする複数の絵図には、富士山本宮浅間大社に参拝した道者が、湧玉池の上池において水垢離を行い、富士山へと向かった様子が描かれている。 湧玉池での水垢離は1920~1930年代まで継続的に行われてきたが、現在は行われていない。しかし、境内には、今もなお湧玉池の湧水を聖なる水として利用する人が見られるほか、1670年当時の境内を描いた古絵図に湧水を司る神社として示された水屋神社が存在し、毎年7月には五穀豊穣を祈願して「御田植祭」が行われるなど、富士山の湧水の恵みに感謝する伝統が確実に継承されている。